第十一話




 結局、に衣装を見せることができなかった。
 城の北虎口門に馬たちが集められているはずで、そこまで走ったのだが、馬もたちの姿もなく、門兵に尋ねると馬たちはすでに流鏑馬が行われる神社へ出立した後だという。
 今なら走れば追いつくぞと門兵は言ってくれたが、馬たちが移動を始めているということは当然は仕事中ということになり、その手を止めてまで見てもらうものではないかとは判断した。も予定通りあちらへ向かえば、遅かれ早かれ姿を見てもらうことは叶うのだ。に真っ先に見てほしかった、という気持ちはあるものの、さすがにそれを押し通すつもりはない。
 を含めた流鏑馬の一般参加者の、会場である馬場への集合の刻限はまだ先である。他にすることがないので、仕方なくは元いた二の丸へ戻る途中であり、満開の桜を見上げながらぼんやりと歩いていた。
 桜祭り自体が、上田城の鬼門を守る神社への奉納の意味合いが強く、流鏑馬もその神事の一環である。などの一般参加の者については、神事というより祭りの余興という扱いであるらしかったが、上田の名だたる武将たちや、城主たる幸村の流鏑馬はれっきとした神事であり、見事的を射抜いた矢は神社へ奉納されるのだという。
 実際に馬を走らせて弓を引く前に、神社では式典が行われる。獅子舞や太鼓の演奏があると聞いていて、一般参加のには式典への参加は許されていないが、見物客として観ることはできるので、楽しみにしていた。今も遠く聞こえる太鼓の音は式典の下稽古だろうか、それとも城下の町から聞こえてくるものだろうか。
 城下の人々も見物に訪れる式典やその後の流鏑馬が実際に行われるのは昼過ぎ、祭りの総まとめを務めるものである。それまでの間、城下では市がたって人々が集まっているころで、どこか楽しげな、浮足立つような雰囲気は、そうした町から伝わってくるものでもあるのだろう。爛漫の春の陽気とも相まって、城を含めた上田の町全体がそんな空気に包まれている。バサラを使わずとも、いい風が吹いていると感じることができた。
「なんだ、どこのお武家のご子息さまかと思ったら、」
 佐助の声が聞こえて、は立ち止まる。
 聞こえた方へ視線を動かすと、桜の木の枝に暗緑色の忍び装束。
「馬子にも衣装とはよく言ったもんだ」
 皮肉の色濃いその言葉に、しかしは上機嫌に口元を緩めた。
「そうだろう?殿に見立てていただいたのだ、本当にこの鶯色はきれいだ」
「・・・・・・」
 佐助はしばし言葉を飲み込んだ。
 は与り知らぬことではあるが、今彼女が身に着けている鶯色の着物は佐助がに譲った古着である。ここでそれを出してくるってちゃん一体何考えてるの。佐助はそう思ってから、いやのことだから何も考えていないだろうと思い至った。
 そして、薄々気づいてはいたが、この少女に皮肉は通じないらしい。
 がじっと、佐助を見上げる。
「猿飛殿は、・・・・・・天狐仮面殿の用意はよろしいのか?」
 わざわざ天狐仮面と言い換えたところに、佐助はわずかに眉を動かした。
「・・・・・・さァね、いいんじゃない?誰かさんとは違ってそんなに着飾る気もないみたいだし?」
「そうか」
 言われた皮肉を理解していないのか、理解しながら受け流しているのか。相変わらず動かない表情では、どちらなのかが判断しにくい。佐助は小さく、息を吐く。
 一体この少女は、何を考えているのだろう。
「・・・・・・ねェ、なんでも答えてくれるって、言ったよね?」
 佐助の声に、はゆっくりと瞬きをした。昨日の話だと気付いて、頷く。
「あぁ、わたしが知っていることならば」
「じゃぁさ、アンタにとって、・・・・・・アンタの知ってる方の、『真田幸村』ってのは、何なの」
 が、驚いたように、眼を見張った。
「幸村殿は・・・・・・、」
 そこで言葉を切って、目元を緩める。
 いかに表情の変化に乏しいとはいえ。
 これはの、確かな微笑である。
「わたしにとって、あのひとは、太陽だ」
 そんな表情が見られるとは思わなくて、佐助は顔には出さなかったが内心、驚いていた。
 と向こうの幸村の関係については、信じられないと思いつつも薄々感づいてはいたのだ。だがこうまであからさまに表情に出るとは、思っていなかった。
「いつでもあたたかくて、どんなときも、手を差し伸べてくれる。そう、この春の陽のようだ」
「春の陽って、旦那なら真夏のぎらぎらした太陽じゃないの」
 思わず言ってしまってから、佐助が知るこちらの幸村と、の思い浮かべる幸村が、別人であったと思い出す。
 しかしは眉を下げて苦笑した。
「そうだな、信玄公と殴り合いをされている姿は春と言うより夏かもしれない」
「そっちでもやってるんだ・・・・・・」
 佐助は若干遠い眼で呟いた。
 あちらの幸村もこちらの幸村も、案外似たような性格をしているのかもしれなかった。
 気を取り直して、佐助は眼を細める。
「なら、『猿飛佐助』は?」
「佐助、は」
 は一度眼を伏せた。思いを巡らせるように、言葉を探すように。
 再び瞼を持ち上げ、佐助の双眸を真っ直ぐと見上げる。
「たいせつな、ひとだ」
「!」
 その言葉に、佐助は眉を持ち上げる。
「守りたいひと。頼りになる。ときには母のように、優しくて。笑ってくれると、嬉しい。・・・・・・だが、」
 は思いついた言葉を並べて、最後に寂しげに眉を下げた。
「これを佐助に伝えれば、きっと嫌な顔をするのだろうな」
 今の貴方のように、とは付け加えた。
 佐助は無意識に浮かべていたらしい表情を消す。表情が無意識に面に出るという時点で忍び失格である、何やってんだかと自分に呆れた。
「どうもあの者は、わたしがこういうことを言うととても嫌がるのだ」
「そりゃあ嫌だろうねェ」
 薄笑いを作って口元に張り付ける。幸村と同様、あちらの佐助もどうやら似たような思考回路を持っているようで、少し安堵した。の言葉、そのどれもに虫唾が走る。尋ねたのは自分だが、できれば黙ってほしい。
 が佐助の顔を見上げて、嘆息した。
「・・・・・・わたしもひとつ、聞いてもいいか?」
「何?」
 一陣の風が吹いて、地を彩っていた桜の花びらを舞い上がらせた。
 ちらちらと薄紅が舞うなか、は佐助の顔を凝視している。その変化を、わずかでも見逃すまいとするように。
「――貴方にとって、殿は何、だ?」
 佐助が小さく息を呑んだ、ようにからは見えた。
 ただその表情の変化の片鱗は瞬く間に消え失せ、元通りの薄い笑みがその顔に宿る。
「何、って。武田の大事なお客人だよ」
「それは、貴方にとっても大切だという風に捉えてよろしいのか」
「そりゃそうさ、お客人に何かあったら大変だからね」
「・・・・・・」
 がわずかに眼を細める。
「ならば、もし。殿に縁談が持ち上がって、どこかの国へ嫁がれるようなことになったら、何とする」
「はあ、まあ大将や旦那がそれでいいならいいんじゃない?ちゃんの意思も尊重してあげたいけど、どこまで通るかはあの人たち次第だしなぁ」
「・・・・・・、そうやって全て諦めるつもりなのか」
 が声を低めた。
 佐助はそれを見て、おや、と思う。
「あれほど殿の傍で殿を見守っていながら、あの方の笑顔を、見つめていながら!それほどまでに貴方は自分の感情が要らないのか?それとも自分の感情に気づいてすらいないのか!?」
 がここに来て数週間、それはこの少女が初めて見せる感情だった。
 即ち、「怒り」である。
「・・・・・・えーと、」
 正直なところ、意味が解らない。
 この少女は何故怒っているのか、何に怒っているのか。
「アンタ一体何が言いたいの?」
 心底わからない、表情と声色にそれを乗せて佐助が言えば、は眉間に皺を刻んだ。
 何か言おうとして口を開いて、しかしそれを押し込めるように口を引き結ぶ。
「・・・・・・もうよい、よくわかった」
 の顔から、表情が抜け落ちる。声色も、元の平坦なものに戻った。
「貴方の想いが本当にその程度だというなら、やはり貴方にだけは殿を任せることはできない」
 温度のない眼で、は佐助を見上げてそう言って、「失礼する」と一礼してから踵を返した。
 歩き去るその背を見送りながら、佐助は吐息する。
「なんだかなぁ」
 ああいう面倒くさそうなところは、ちょっと旦那に似てるかも。
 表情を一切動かさずにそう考えていた佐助の背後に、ひとりの忍びが現れる。
 配下の忍びの報告に佐助はその柳眉を持ち上げて、顔から笑みを消した。
 次の瞬間、佐助と忍びの姿は消え失せる。
 ひらひらと、薄紅の花びらが、散っていた。








 ああ、腹が立つ。
 は憤然と息を吐きながら、足早に歩いていた。
 何なのだ、あの男は!
 忍びは血で血を洗う修羅道に生きる日陰者だと、だって理解はしている。
 それでも彼らは、と同じ、血の通った人間だ。猿飛佐助も同じ。彼は、を慕うこころを、持ったのではないのか。
 誰かを慕う、すきだと想うそのこころは、とても尊いものだ。
 無意識に、の右手が着物の懐を押さえる。そこに入っている、手拭いの温もり。
 どんなことがあっても、この想いがあるから、は生きていけると思うのだ。「ここ」がの知る幸村のいない世であっても、そして「ここ」から「向こう」へ帰る手立てなど何一つ見つからなくても。
 それでも、このこころの中で、幸村は笑ってくれるから。
 その、大切な、想いを。佐助も、手にしたのではないのか。
 気づいていないのか、気づいていないふりをしているのか。後者ではないかと、は思う。あの聡明な男が、自分の感情に気づかぬはずはあるまい。
 ならば、何故。
 その想いを、殺してしまうのか。あんなにを気にかけて、殺しきれてもいないではないか。
 は歩きながら、だんだんと頭に血が昇ってきたことに気づく。
 もはや具体的に何に対して腹を立てているのかもよくわからなくなってきた。
 とにかく。
 佐助が気に入らない、その一点である。
「・・・・・・いや、違う」
 立ち止まった。
 これでは自分の考えを佐助に押し付けているだけである。自分の思うとおりにならないから腹を立てるなど、まるで子どもだ。
 そう、佐助があくまで己の身を忍びと律して、に不必要に近づかないというならば、それはそれでのためにはいいことなのだ。信のおける立派な御仁、たとえばこちらの幸村のようなひとに嫁いでくれたなら安心だと、自分でも以前考えたではないか。
 それなのにどうして、こんなに腹が立つのか。
「・・・・・・」
 顔を上げると、いつの間にか厩に来ていたことに気づいた。二の丸に戻ろうとしていたはずだったが、毎日足を運んでいたから癖になっているようだ。無意識とは恐ろしい。
 中を覗いても働く人影が見当たらないのは、皆流鏑馬の準備に出払っているからだろう。
 厩の入り口で立ちすくんだまま、は考える。
 ここに来てから、毎日を見ていた。
 そしての傍には必ず佐助がいた。
 毎日見ていたから、ももう、知っているのだ。
 どれだけ佐助が、を大切に思っているのかということを。
「・・・・・・埒があかぬな」
 そもそもがひとりで考えて、何かしらの答えが出るようなものではない。
 相談する相手でもいれば別だが、まさか同じくにほのかな想いを抱いている幸村に相談するわけにもいくまい。
 は自嘲気味に口の端を上げた。
 結局ここでは、自分はあくまで居候の部外者で、何一つ口出しできるような立場でもない。
「仕方のない、ことなのか・・・・・・」
 呟いて、今度こそ二の丸に戻ろうと踵を返しかけて、その視界の端に映った色が意識に引っ掛かった。
「!」
 もう一度厩の中へ視線を向けて、そして気づく。
 厩に踏み入り、流鏑馬に出ない鹿毛や栗毛の馬たちが頭を擡げたり鼻を鳴らしたりしている間を、は小走りで駆ける。
「ぶち子殿」
 駆け寄った先、淡栗毛の斑馬が頭を上げてこちらを見た。
 見間違えるはずもない、今日流鏑馬でが乗る予定の馬である。
「どうしたのだ、馬たちはもう神社の方へ移動したと聞いたぞ」
 首筋を撫でながら問う。
 もしかして体調でも崩してここに残されたのだろうかと思ったが、の見る限りでは毛艶もいいし、おかしなところは見当たらない。もちろん素人目に見て、ではあるが。
 馬が、鼻を鳴らした。
「・・・・・・ぶち子殿?」
 何か、様子が変だと気付く。
 そわそわと、落ち着きがないような。
 先日皆が見る前で馬場を走ったときの様子に似ている。緊張した時の。
「どうした、今から緊張しているのか?」
 少し気が早いのではないかと問いかけるが、馬は首を小さく動かすばかりだ。
 どうしたのだろう。
 誰か馬番は近くにいるだろうかと周囲を見渡して、
「あーもうこんなとこにいたのか!」
 こちらに駆け寄ってくる宗秀の姿が見えた。
「宗秀殿」
「なんだお前か、一瞬誰だかわからなかった」
 が声をかけて初めてその存在に気が付いたというように宗秀はこちらを見下ろした。
 そして、自体には特に興味がないようで、すぐに馬へ視線を動かす。
「ったく、心配させんなよ?」
 人間に対するものとは全く違う優しい声色でそう言って鼻筋を撫でてから、宗秀は馬を繋げている縄を解き始める。
のヤロウどこいきやがった」
 ぶつくさと呟いたその宗秀の言葉に、は眉を動かした。
「・・・・・・殿がどうかされたのか」
「いねぇんだよ、この忙しいときに。こいつ連れてくるのはの役目だったのに、向こうで馬の調子確認してたらこいつが来てないって気づいてよ。どっかではぐれたかと思ってずいぶん探した」
 どこほっつき歩いてンだか、と不機嫌そうに言う宗秀を見つめていたの背筋に、ぞわりと悪寒が走る。
「待て、殿は貴方たちと一緒に神社へ向かったのではないのか」
「全員揃ってるかなんて見てねぇよ。馬のそれぞれ歩く速さも違うからな、別に隊列作って移動してたわけじゃねぇし」
「・・・・・・!」
 おかしい。
 絶対におかしい。
 の本能が、警鐘を鳴らす。
 は、任された仕事を放棄するようなことは絶対にしない。この馬のことは特に可愛がっているようだったし、これは贔屓目かもしれないが他でもないが乗る馬なのだから、うっかり忘れたということもありえないはずだ。
「ぶち子殿、」
「あ、コラ」
 宗秀の作業の邪魔になるのも構わず、は身を乗り出して馬の眼を見つめる。
殿を見たか?何か変わったことはなかったか?」
 馬が鼻を鳴らす。
 何を言っているかを理解することは、もちろんできない。だが。
 その眼が伝えてくる、只ならぬ気配だけは、感じ取ることができる。
「ッ、」
 がばりとは身を翻す。
「あ、おい!?」
「ぶち子殿をよろしく頼む!」
 振り返りながらそう言って、宗秀の返事を聞かずには厩を走り出た。
 風を使うことを考えて、今日まで使うなという佐助の忠告を思い出す。
 まだ何かあったと決まったわけではない。ここで徒にバサラを使うことは、漸く少しはこちらを認めてくれたらしい佐助の、自分に対する信頼を裏切ることになる。
 ならば。
 は館の軒先を見上げて、口を開いた。
「――どなたか、忍隊の方はおられるか!」
 の声に、音もなく黒装束の忍びが降り立った。
「何か」
 膝をついて短くそう問うた忍びに、こちらも衣装が汚れぬように膝を折って、視線の高さを合わせる。
「手を止めて申し訳ない。貴方たちは、殿の居場所を把握しておられるか」
様ならば、神社の方に」
「神社にはいないと、宗秀殿が言っている。とても嫌な予感がするのだ、すまないがすぐに殿の居場所を確認してほしい。御無事であられるならそれに越したことはないが何かがあってからでは遅いだろう」
「!」
 忍びがわずかに驚いたように肩を動かした。
 それに構わず、は続ける。
「もし殿の居場所がわからぬようであれば、幸村殿にも伝えてくれ。それから猿飛殿はどちらに」
「長は、町に出ております」
 町と聞いて、は眉を跳ね上げた。
「曲者でも出たか?」
 忍びは答えなかったが、はそれを是と判断する。
「わかった、猿飛殿の方へはわたしが行く。貴方たちは殿を」
 そう言い置いて、は駆けだす。
 走りながら、左手で流鏑馬本番では外すつもりだった刀の感触を確かめる。流鏑馬では飾りの腰刀を差すことになっている。それまではと思っていつもの刀を差したままにしていたが、正解だったかもしれない。
 何もなければいいが、と考えながら虎口門を出たところで、並走する影に気づいた。黒装束の忍びだ。
「長のところまで、案内いたします」
「!、恩に着る!」
 礼を言うと、忍びはわずかに頭を下げた。
 城を囲む水濠を渡る橋を過ぎれば、そこからは祭りで華やぐ城下町である。
 多くの人がごった返す通りに踏み込めば、喧噪がわっ、と身を包むようだった。
 人々の活気ある声に相反するように、頭が冷えていくように感じた。
 頼むから、杞憂であってくれ。
 行きかう人々の笑顔を視界の端にとらえながら、は忍びの影を追って疾走した。




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