第九話




 桜祭りを翌日に控えたその日。
 春の陽気はいよいよ増して、穏やかな風が花のにおいを運んでくる。
 今日のは、毎日足を運んでいた厩ではなく、二の丸の庭園にいた。この城でが与えられているのが二の丸の、あの初めて目覚めたときの一室で、その周辺と厩のあたりだけがの行動範囲だ。
 上田城のことならば、ほぼ全容を知ってはいるのだが、勝手に動き回らないのはあくまで今の自分が居候であると認識しているため。
 ただでさえ大きな祭りの前だ、多くのことに忙しく動き回っているであろう忍びたちの仕事を、自分が動き回って増やすことはない。
 気配を感じるとき、感じないときがまばらではあるが、相変わらず忍びは、――主に猿飛佐助は、自分を近くで監視している、はずだ。
 目の前を、はらはらと薄紅が舞い降りていく。
 視線をあげれば、見ごろを迎えた大きな桜の木。
 この春の光景は、あちらもこちらも変わらないのだと思い至る。
 城だけでなく、上田の里中を、春に染め上げる桜の木々も、そこに息づく人たちも、そして馬たちも。
 自分の知る世と異なることがあるとすれば、それはの存在だ。
 この世とは全くことなる世から来たという、天女様。彼女の存在は確かに、自分の知る世にはない。
 逆を返せば彼女以外のものはすべて自分の世と同じなのだ。
 幸村も、その性格に多少の違いはあっても、ひととしての根の部分に違いはないのだと、は理解した。
 左腕を持ち上げる。
 何度か開いたり握ったりを繰り返す。
 もう、痛みはない。最後の包帯も今朝がた取れて、傷は完治した。
 桜の花びらに視線を固定したまま、意識を風へ向ける。
 持ち上げた左腕の掌を、上へ向ける。その指先から、風に溶けていくように。
 久しぶりの感覚だ。
 身体が、思い出すように。
 風の音を、においを、その感触を、己の中に取り込むように。
 風の流れも。自分の良く知るそれと、変わらない。
 春の風だ。
 あたたかくてやさしくて、こころがくすぐったいような感覚。
 風の感触を確かめたところで、瞼を降ろす。
 己の身体を中心に、外へ外へと、感覚を広げていく。
 風の流れが、その動きのひとつひとつが、周りの全てを浚っていく。
 その音を聞く。耳に心地いい、風が流れる音だ。周囲全ての情報を、風が教えてくれる。
 例えば、今。
 殺気も、他の気配も、一寸たりとも発さずに背後に立った忍びが、己の首筋目がけて振り下ろすクナイの動き。
「――ッ」
 思考より速く、ほとんど反射のような動きで、は前へ跳び、風が土埃を巻き上げた。
 宙にいる間に身体を反転させて、着地する。
 左の首筋に触れる。痛みはない。触れた指を見下ろせば、わずかに血が付いている。薄皮一枚で済んだらしい。
 クナイが正確に狙ったのが左の首筋というところが彼らしいと、はそこに立つ佐助を見て思った。
 右ならば、その場で身を反転して抜刀の刃で迎撃できた。
 そういうの戦い方を、この忍びは理解しているのだ。が刀を返されてから、まだ一度も抜いていないにも関わらず。
「――その動きも、風使ってンの?」
 冗談ではなく、たった今を殺そうとしたばかりの佐助が、まるで世間話でもするかのような軽い声色でそう言って首を傾げた。
 すぐにでも追撃があるかと身構えていたは、佐助のその様子に嘆息して構えを解く。
「・・・・・・そうだ。わたしの風は大きく分けて三つ。気配を探ることと、離れたところの風を動かすことと、わたし自身の動きの補助、ができる力だ」
「・・・・・・いいの?そんなこと俺様にしゃべっちゃって」
「問題はない。特段秘匿としているわけでもない」
 会話を続けながら、は思考を張り巡らせる。
 目の前の忍びは、猿飛佐助は、何を考えているのか。
 今ここで、襲い掛かってきたのは、が風を使ったからだろう。その風が、何らかの攻撃行動に移る前に。不安要素は芽吹く前に叩き潰しておきたい、「猿飛佐助」はそういう性分の持ち主だ。
 もちろんとしては力が戻っていることの単なる確認であったのだが、確かに佐助のそういった性質を忘れて不用意に風を使ったのは失策だった。この数週間で、どうも戦いの勘が鈍ったように感じる。やはり今日は一日鍛錬に当てた方がよさそうだ。明日に迫った流鏑馬に必要なのはもちろん馬上で弓引く技術だが、それに最も大きく作用するのは集中力。視界が止まって見えるくらいの集中と落ち着きがなければ、矢は的に当たらない。
 ――それはともかくとして。
 今は自分のことより佐助だ。
 注意深く見据えるが、佐助はだらりと下ろした右腕の指に引っ掛けるようにクナイを下げたまま、いつもの大手裏剣を出すでもなく、闇の力を発動させるでもなく、ただそこに佇んでいる。
 殺気は、ない。そもそも暗殺を得手とする忍びは殺気など放つことなく人を殺めることができるから、今この佐助から殺気が感じられないことはあまり当てにはならない。
 だが、彼はこれ以上動く様子がない。
 そして、気が付く。
 先ほどの、首筋の傷。
 あのクナイの刃に毒が塗られていれば、今頃自分は無事ではないはずだ。忍びの武器とは人を殺すためのもの。毒の使用は日常茶飯事である。
 その毒が、使われなかったということは。
 彼には自分を殺す気がなかった、ということなのか。
 ・・・・・・と、いうよりも。
 は佐助の、温度のない双眸を正面から見つめる。
 ――佐助は、迷っているのではないだろうか。
 を殺すべきか、生かすべきか。
 今日これまでは、はバサラを使えなかった。攻撃手段が刀と体術しかなかったから、それだけなら脅威にはならないと判断されていたのだろう。しかしバサラが復活したとなれば話は別だ。事実、にも、幸村や佐助にはとうてい敵わないだろうが、他の忍びたちになら一矢報いることくらいはできるという自信がある。
 ただそれは、実力してできるというだけであって、今のにそれを実行に移す気は全くないのだ。
 彼らがの敵になるというならばこちらもそれなりの対応を辞さないが、幸村も佐助も城内の他の者たちも、を害するような意思はないのだと、もよくわかっている。
 逆に彼らに何らかの攻撃を加えるようなことがあれば、他でもないが悲しむことになる。それほどに、が彼らへ全幅の信頼を置いていることも、知っている。
 つまるところ、には今、佐助に対して攻撃を加えようという意思はない。
 可能ならば、親しいとまでは行かずとも、無用な警戒は解いてほしいと、思う。
 は薄々気が付いている。が、と佐助の折り合いが良くないことに、少なからず心を痛めていることを。
 何より、とてあちらでは相応に親しく接していた(とは思っている)佐助と、――別人であるとはいえ同じ姿かたちをした「猿飛佐助」と、好んでいがみ合いたいわけではないのだ。
 どうすれば、信じてもらえるだろう。
 向こうの佐助とは、どうやって親しくなったのだったか。
 記憶を巡らせてみるが、いまいちこれというきっかけが思い浮かばない。
 ならば、幸村は。は。
 自分はどうして、あのひとたちを信じようと思った?
「・・・・・・、」
 あちらの幸村の、どんなときでも差し伸べられた手。こちらの幸村の、絶えずあたたかい笑顔。
 ――の、優しい、声。
 漸く、は気が付いた。
 初めの一歩から、間違っていたのだと言うことに。







 唐突に黙りこくったを、佐助は微動だにせず見つめている。
 ――本当に、殺すつもりだった。
 もはやこの数週間、慣習となりつつあるの監視。幸村がその役を買って出て、表面上は自分は監視の役目から退いたことになっているが、それでも佐助は一瞬たりともから意識を逸らしていない。祭りの準備など、自分の手が必要になるところでは分身まで使って、ひたすらこの少女の影に潜み続けた。
 この少女を信用する幸村やを、信じていないわけではない。
 信用できないのはこのそのもので、万が一にも幸村やが害されるようなことがあってはならないのだ。
 先ほど感じた風からは、佐助に即時の行動を起こさせるほど、異様な何かが感じられた。
 感じたその瞬間に、ぞわりと背筋が粟立つような。
 自然のものにはありえない、清すぎる風の流れ。
 危険だと、瞬間的に判断した。
 常ならざるモノは往々にして、周りに危害を加えるものだ。その本質こそと相違するとはいえ、異能持ちの自分はそれをよく知っている。
 だから、殺そうと。
 初撃を避けられたのは、予想外だった。
「・・・・・・、」
 こちらをひたりと見つめていたが、吐息した。
 そして妙に無遠慮な動きで、右腕を刀に伸ばす。
 来るか、と身構える。とはいえ佐助のそれは傍目には動いたようには見えない動きだ。指に引っ掛けているクナイを、わずかに動かしただけの。
 ゆっくりと瞬きをしたが、視線は佐助の双眸から離さぬまま、刀を鞘ごと、帯から抜いた。
「!」
 ぴくりと眉を持ち上げた佐助の視線の先、は鞘に収まったままの刀を、数歩歩いた先の地面に置く。そしてまた数歩戻って、何事もなかったかのように佐助と向き合った。
 そして、またひたりと、視線を合わせてくる。
「――何が、知りたい?」
 静かな声で、そう問われた。
「・・・・・・何のつもり?」
 の問いの真意を測るように、佐助は眼を細める。
 はこちらに視線を当てたまま、両腕をわずかばかり持ち上げて、その掌をそれぞれこちらへ向けた。
「この通り、わたしは丸腰だ。他に武器になるものは持っていない。風は・・・・・・、刀と違って取り外しはきかぬから、使わないとわたしの口で誓う以外のことはできないが」
 言われている意味がわからず、佐助はただへ視線を投げる。
 が、あのよくわからない無表情で、言う。
「わたしは貴方を攻撃しようとは思っていない。攻撃する術も持たない。貴方にとって、わたしは疑わしいのだろう?知りたいことをなんでも聞くといい。わたしが知りえる範囲で答えよう」
 佐助はその姿を無言で見つめ、次の瞬間、闇色を滲ませての眼前に立つ。
 その左の首筋、先ほどつけた傷と寸分違わぬ場所に、クナイの刃をぴたりと当てる。
「何のつもり、って聞いてンだけど」
 軽薄な口調。覗き込むような双眸が、剣呑な光を孕んでいる。
 その色を、は表情を変えずに見上げる。
「そもそも貴方に初めて会ったとき、わたしは貴方を敵だと判断した。それが誤りだったのだ」
「・・・・・・?」
「自分を敵だと疑う者を信じろと言う方が傲慢な話だ。わたしは今ここで、貴方に生命を預ける。貴方を信じる。だから貴方の気の済むように、なんでも聞き出すがいい」
「・・・・・・本気で言ってんの?」
 クナイを握る腕に、わずかだけ力を籠める。
 ぷつりと皮膚が切れる感触が、刃越しに伝わってくる。
 さきほどのかすり傷よりも広く、そしてわずかだけ深く、刃はの首筋に食い込む。見る間に珠のように滲み出た血が、やがてつうと垂れていく。
 あと少し。
 ほんの少しだけ力を加えるだけで、この少女は死ぬ。
 それを十分理解できるだけの力量を、は持っているはずだ。
 それでもは身じろぎすらせず、ただひたりと佐助を見つめる。
「わたしの素性、わたしが知りえるだけのあちらの世の世情、その他なんでもいい。貴方は、わたしの何を不審に思っている?」
 その深い色の瞳の、奥にちらつく光に、見覚えがある。
 これは。
 幸村の瞳のそれと、同じ。
 ・・・・・・忍びの身には性質の悪い、眼だ。
 すべての思考や論証やその他の事情をすっ飛ばして、信じざるを得ないような。
 言葉にするなら、「ああもう仕方ないな」ですべてを済ましてしまうような。
 幸村や、が持っている、光だ。
「・・・・・・」
 無言のまま、腕を動かす。
 クナイの刃が、の首筋から離れる。
 その間もの鉄面皮は一寸たりとも変化しない。
「・・・・・・、その、風は」
 ひゅ、とクナイを振るえば、刃に付いた血がぱたりと地に落ちた。
「人の気配を感じ取れるんだろ?」
「ああ、そうだ」
 が頷く。
 佐助は息を吐いて、クナイを懐に納めた。
「それって、どれくらいの範囲?ひとりひとりが判別つくの?」
「・・・・・・範囲、をあまり気にしたことはなかったが、・・・・・・おそらくこの上田城内なら全て。知っている者なら、誰がどこにいるかはわかると思う」
「城中、ってけっこうスゴイね」
 無感動な調子で言うと、がひとつ瞬きをした。
「ここは、構造を知っているから。知らないところだと、もっと狭い」
「へぇ。ちなみに知らない人間が紛れてる場合は?」
「そこに誰かいるな、という程度になるが、例えば殺気を出しているとか、そういう意思のはっきりした気配なら感じ取れる」
「ふぅん」
 佐助は首を回して辺りの様子を探る。
「・・・・・・じゃぁ、さ、今ここで、城内を探ってみてよ。そうだな、旦那とちゃんの場所くらいはわかるんでしょ?あとはまぁ城に詰めてる人数とか」
「わかった」
 佐助の言葉には頷き、そしてじいと佐助を見つめた。
「・・・・・・何?」
 不機嫌を隠さずに問うと、は小さく首を傾げる。
「・・・・・・いや。聞きたいことはそれだけか?わたしの素性が知りたかったのでは?」
「べっつに」
 むすりとした表情のまま、佐助は息を吐く。
「アンタがちゃんの言うとおり別の世界から来たっていうんじゃ、素性なんか何をどれだけ聞いたって裏の取りようもないし何の足しにもなりゃしない。それなら、アンタをここに置いておくにあたって、何にどう役立つのか確認しておこうと思っただけ」
「そうか」
 佐助の返事を聞いて、は頷き、そしてわずかに口の端を上げた。
「――やはり貴方は優秀だ、猿飛殿」
「・・・・・・は?」
 ひく、と佐助は頬をわずかに引きつらせた。
 はその様子に構うことなく、姿勢を正して眼を閉じる。その身体を中心に風が巻いて、桜の花びらが視界に躍る。
 ・・・・・・誰が優秀だって?
 風に集中しているを半眼で見つめながら佐助は思う。こいつ一体どういう思考回路をしてるんだ。
 改めて会話をしてみて、よく理解した。
 正体が不明なのはこの際とりあえず置いておくとしても、
 ――こいつ、気に入らない。










「――ッ!!」
 がばりと、幸村が立ち上がったのに、傍に控えていた佐助も気づいた。
「旦那?」
の、風だ」
「!」
 主人の言葉に、佐助も眉を跳ね上げる。
「間違いない?」
「ああ。先ほどは短かったゆえ追いきれなんだが、これは間違いない。の風とお前の闇は、この幸村決して違えぬ」
「・・・・・・」
 天狐仮面を見破れない人がどの口でそんなことを、と心の底で突っ込みを入れてから、しかし佐助は術の準備を始める。
 何しろこの主人の、物事を嗅ぎ取る動物的な勘は、ともすれば忍びの自分の術よりもよほどずば抜けているのだ。
「わかった。すぐやるよ、・・・・・・ていうか、旦那も行くん、だね?」
「何度言わせる、俺がを迎えに行って何が悪い」
「いやその、悪いとは言わないけどほら、あっちがどんな危険な世界かもわからないんだし」
 言ってしまってから、失言に気が付いた。
 恐る恐る見上げれば、今にも発火しそうな勢いの主人がぎらりとこちらを睨む。
「危険であるなればこそだ!」
「ごめんってちょっとそこで火ィ出さないで!落ち着いてよ」
「落ち着いておる」
「・・・・・・」
 これはもう何を言っても無駄だと、佐助は術式に集中する。
 とにかく早く、を回収しなければ。
 旦那が横暴すぎてもう手に負えません。頼むから無事でいてくれよ、ちゃん。




←back next→