第八話 今日は祭りの5日前。 いつもならば鍛錬に疲れた馬達を体温を徐々に下げるために休めながら遊ばせる馬場が、今日は言い知れぬ緊張感に包まれていた。 それはそうだろう。 今日は城内選抜の日なのだから。 テスト内容は乗馬、かつ弓を引く動作を宗秀さんに見せること。 これができなければ、弓を引いた反動で馬に当たって傷つけるかもしれないから、ちょっとでも覚束ない動作をしたら即失格になる。 もちろん、可能ならば全員不参加にしたい勢いの宗秀さんからしたら、ほんの僅かな失敗も見逃すつもりはなくて、私自身の予想では合格者は5人くらいしかいないんじゃないかなと思ってる。 妥協しないと言うか手抜きを知らないと言うか…馬に対しての情熱はこの上田では随一だ。 各乗り手が馬を選定し終わって、今は慣れる為にコミュニケーションを図る時間ではあるのだけど…。 馬番たちはどの馬が選ばれるのか、自分が手塩にかけた馬が選ばれてくれないかと興味津々で馬場の柵にもたれかかりながら見に来ている。 それ以外にも参加者の応援隊とか、どういうメンバーが選ばれるのか気になる人もギャラリーとして馬場の周囲にいて、なかなか賑やかしい。 お祭り当日ではこれ以上の観客が押し寄せるのだから、ある程度人馴れも兼ねているんだろうけれど…緊張した馬がやはり多い。 戦とは違った人の雰囲気に何やら飲まれているような、緊張がどうしても抜けきれない馬が多い。 この時間で如何に馬と相性を合わせられるかが、宗秀さんの中での最低ラインだとわかっている身からすれば、どうにかして緊張を解いてと声をかけたいが、声をかけたらを失格するぞと釘を刺されてしまえばぐうの音も出せずに黙るしかない。 他にも騎馬隊の隊長さんまでいて、騎馬兵以外の人の実力を見てスカウトする気満々だし…。 そんな中、見学組みの一人だった私は、すぐ近くにいた鹿右衛門さんに話しかけた。 「ねぇ、鹿右衛門さん。」 「どうされました?」 「忍隊って…流鏑馬参加厳禁、でしたよね…?」 あれ、いいんですか? そういう意味も込めて、不躾ながら指さしてしまう。 「………………そうですね。」 たっぷりと沈黙の後の回答は同意しているのかしていないのかよく分からない曖昧さで吐き出されていて、とりあえずあそこにいる忍隊長様は勝手にここに参加しているんじゃないかと予想できた。 そもそも、ちゃんが唐突に参加したいと言ったときに気が付くべきだったんですよ。 『負けられない戦いが…』ということはもちろん負けられない『何か』がいるわけで。 忍隊不参加は結構早めに聞いていたことだったから、てっきり怪我のリハビリのためなのかな、自分に打ち勝つためなのかななんて悠長に捕らえた自分をちょっと説教したい。 仲がいいとは言い難い二人が何かで勝負をつけようという話になったとしてもなんら不思議はないわけで…。 いや、でも忍隊の絶対不参加は結構前から言っていたのもあるけれど、それ以前に猿飛さん本人が口にした条件だったはず。 逆にちゃんが参加すると言ったからこそ、どこでも見張るために猿飛さんも仕方なくあそこにいるんだろうか? でも、その会場には真田さんだっているのに? そんな私の疑問を肯定するように鹿右衛門さんが重い口を開いた。 「あの女子だけでなく、一般参加者に不審者がいないか潜伏するため、と聞いています。」 「そっか…猿飛さんのお仕事なんですね…。やっぱりお祭り一つするのにも大変なんだ…。」 勝手にちゃんに対抗するために参加しているんじゃないかとか悪い事思っちゃったな…。 佐助に感心しきりのは、才蔵の微妙な顔の変化には気付かずに二人の姿を目に捉え続けていた。 そもそも、一般参加者に不審者がいないのかは参加するときにでも調べればいいだけの話だ。 もちろん遠方からの参加者ともなれば、当日飛び入りの際にすべてを調べきる事は無理だろうが、そもそも上田に馬を入れる段階で目に付く。 その段階で調べるのは当たり前だ。 佐助から言われた、どう考えても言い訳としか言いようのないそれに、そしてそれすらも信じるに、才蔵は深いため息をついた。 一方からしたら、大変なんだなぁと感心はしても、もう一つの疑問までは払拭できなくて。 鹿右衛門さんの方にわざと向いてから首を右にかくりと傾いで、その疑問を口にした。 「じゃぁ、なんで天狐仮面なんです?」 「…………………………………忍隊の参加を不可にした手前の変装…ではないでしょうか…?」 いや、それはどう考えても嘘なんじゃ…。 だって、あれを猿飛さんだと分からないのはどう考えても真田さんくらいしかいないのに。 むしろ、笑いを取るからそれを駄賃に参加を許してくれと言っていると言われた方が納得できる。 そう思いはしても、答えるまでの鹿右衛門さんの多大なる沈黙に、それ以上触れてくださるな!という心の叫びを聞いた気がして、見上げていた顔を馬場に戻した。 猿飛さんの目を覆うお面に釘付けなのは多分自分だけではないようで、時折くすくす笑っている人たちを見ると、誰もが疑問に思っていそうなんだけれど…。 そもそも、馬上なんてところでさらに視界を悪くするようなお面つけて…。 まぁ、忍者さんで器用だから、一般の人たちに対するハンデですよと言われれば納得しなくもないけれど。 猿飛さんには猿飛さんの考えがあるんだろうから、これ以上触れないほうがいいのかな…? …と、次の瞬間、わぁと観客が一瞬盛り上がる。 淡栗毛の子に乗ったがほんの少しずつ、スピードを上げていく。 馬の準備運動を始めたのだ。 それを合図に他の参加者達も各々が乗った馬との相性を図るために手綱を絞り、準備運動を始めた。 そのおかげか馬達にも若干緊張が散った気がする。 それぞれが走ることに集中するように、並足から駆け足と操っていくのをじっと見た。 これならばもう少し合格者が増えるかも…。 元々が騎馬のために調教された馬だから特別我侭な子はいない。 ましてや戦場においては自分の命を預ける相棒となるわけで、それでもその場で選ぶような時間もない。 つまりどんな馬でも乗りこなす事こそが騎馬兵の条件となるわけだ。 事実、真田さんだって最初に乗る馬は決まっていても、その馬に乗らず、戦場で拾ってた馬をそのまま利用する事も多々あると聞く。 人馬一体の脅威は、どんな馬にも乗れ武器を奮える兵士とどんな兵士でも乗せられ言う事の聞く馬を育てる事にある、というのが錬三郎お爺ちゃんのモットー。 それが平均以上の水準を保っているからこそ、武田騎馬軍は他国にとって脅威なのだ。 そんな上田の騎馬兵さんたちが今回は主な参加者で。 猿飛さんとちゃん以外の9割が騎馬兵所属の人だ。 確かに誰もが乗る姿も様になっていて、扱いも慣れているというのが分かるけれど。 それでも目がどうしてもちゃんに行く。 肩の怪我がほぼ完治しているのは、治療を手伝っていた自分が一番よく知っている。 だから乗りこなせると言っていた彼女に対する不安も今ではほとんどない。 贔屓目…も少しはあるかもしれないけれど…乗っている姿が美しいのだ。 その証拠に、ギャラリーの視線のほとんどを彼女が攫っていっている。 自分が乗れなくても分かる。 彼女は馬に乗ることにも馬の扱いにもすごく慣れている。 馬の様子を見ながらで、トップスピードではないけれど…手を離しながら弓を持つ動作一つとっても美しいしかっこいい。 あれは、真田さんも猿飛さんもうかうかしていられないんじゃないだろうか…? …本当にすごい、でも…なんというか……。 「かなり置いていかれた感が…。」 ちょっと寂しい…。 れ、練習しない自分が悪いんですけども! 鹿右衛門さんに「どうしました?」と問われたのをなんでもないと首を振って答える。 いつか、私もあんな風に乗れたらいいな…と思うくらいはいいよね。 手放しは無理にしても…いや、走るのは無理でもお散歩くらいはできるようになりたいものだ。 だんだん下がっていくハードルにははとは乾いた笑いを浮かべた。 次にふうとついたため息は感嘆も情けなさも入り混じった、とても曖昧な色をしていた。 ■□■□■□ はちらりと視線を走らせた。 観客の多さよりも、今から行われる宗秀による参加者選定のための緊張感漂うせいか、馬の動きが若干ぎこちない。 のようなあまり乗せた事のない人間が乗っているせい…と言うよりも、単に参加者の緊張が移っているだけというのは分かるのだが…。 そんな中であっても、佐助の扱う馬は乗り手同様気楽さが滲み出ていて、緊張感漂う中好き勝手に動かしては一人と一匹だけ異質を放っていた。 あの緊張感の中で、独特の雰囲気を保つ事ができるのは乗り手のうまさによるものだ。 それがよく分かる自分も、下手ではないとは思うが、彼ほど保てないもどかしさにどうにも焦る。 器用な忍びができぬわけがないと言われればそれまでだが、やはり意識してしまうとどうにも気になってしまう。 負けられぬと気負いそうに逸る心を、深呼吸して静める。 これが馬には緊張を強いるのだ。 ここで勝負する意味はまったくない、と頭を振って冷静さを取り戻す。 むしろ焦っては宗秀殿の選考から外れてしまいかねない。 本日はそれに通るだけでよいのだ。 大きく息を吸い込み、輪から外れるように軽く駆け足で馬場の周囲を回っていく。 乗せてもらっているのは例の淡栗毛で、一応世話になっているからと、馬を選ぶときに最後に回してもらった。 しかし、そこまで遠慮しても、宗秀の言うとおり最後まで残った。 あぶれると言うにはもったいない馬であるのだが、やはり皆の目を引くのは栗毛の馬らしい。 もちろん、栗毛の馬が劣るわけでもないが…珍しい毛色はここでは異質な自分にとてもあっている様な気がして、自然と手を伸ばした。 そう思っていると殿に知られてしまうとまた叱られてしまうなと、はそっと自嘲気味に笑った。 今はそれよりも、宗秀殿の選定に残らねばならぬ。 早掛けにしろ流鏑馬にしろ、幸村に敵うとは露にも思っていない。 生まれながらにして武家に生まれた幸村は馬に乗ることはもちろん、いろんな武術を一通りこなしているはずだ。 当然弓の腕前とて、それが得意な武将にも引けを取らぬものであろう。 常時槍を使っているのはそれだけができるのではなく、それが得手なだけだ。 こちらの幸村とて同じはず。 流鏑馬では、両手を離し槍を振るうのと同じ動作とはいい難いが、姿勢を保つのは槍を振るうほうが難しいはず。 一番期待のかかる最終走者である事を軽く了承した所からも、自信は十二分に伺えた。 問題は目の前にいる佐助だ。 馬を操る術はさすがに長けている。 弓矢とてできぬはずがない。 一応礼儀なのか選考会には参加しているが、彼が通るのは今の雰囲気から誰もが予想できるだろう。 その顔にかかる白い仮面が日の下ではなかなか眩い。 天狐仮面も参加するのでは?と言う自分の安い挑発に簡単に乗ってきたのはいいが…本当に天狐仮面で参加するとは…。 これを、自分の知る佐助に話したらどうなるであろう。 おそらくは目元を手で覆い、どんなに言い繕ったとしても自分の話しを信じないのではないだろうか。 良い土産話ができたと心の中で思っているとはどちらの佐助も思うまい。 別に佐助の事は嫌いではない。 嫌いではないのだが…目の前にいる佐助はどうにも苦手だ。 自分の知る佐助は底知れぬ考えに食えぬ男と思ったことが多いが…こちらの佐助は行動の理由が根本的に理解できない。 ふと、佐助を見ていると相も変わらず馬を遊ばせるように手綱をゆるりと自由にし、気楽に時間を潰している…。 …と思っていたが、その顔が止まる。 じっと佐助の見ている視線の先にはと才蔵がいる。 何やら楽しげに話をしているのか、殿は相変わらずころころと鈴が鳴るような声で笑っておられる。 才蔵の表情は真面目に話を聞いているだけのようだが、何度も頷いている所を見ると満更でもない様に見える。 その様子をじっと、佐助は見ているのだ。 しかも、こちらが見ていることに一切気が付かずに。 あぁ、なんだと確信する。 に対する佐助の過保護な対応をそうではないかと漠然と思っていたこともあったが…どうやらの思惑は外れてはいなかったようだ。 最初は、得体の知れない自分に対する警戒かと思っていた。 否、それも間違いなくはあったはずだ。 手段を選ばず確信に近いものを持ってして、精神的に追い込もうとまでしていた。 それがに阻まれ、警戒をしてもがそれを由とせずに構うようになってしまい、幸村までもがの存在を認めてしまった。 そこまでなれば、平素の佐助ならば警戒心をどこで解けばいいのか分からない事もないだろうに解けずにいたのは、幸村でもなく上田でもなくを守りたい一心で。 なるほどと頷いて、すいとは目を細めた。 佐助の思いは純粋に嬉しいと思う。 幸村以外の人間にもその心が向いたのかと言われれば、幸村と共に驚くと同時に喜んだであろう。 ただし、それが殿となれば話は別だ。 あのように穏やかに笑んでいる殿の顔を一点でも曇る事がないように願って止まないのだ。 佐助がを幸せにできるだろうかと問われると、どうしても首を傾がざるを得ない。 まだ幸村と仲が進展するかも知れぬと予想できたほうが、は安堵しただろう。 忍びは忍びであり、血や泥で手や心を汚す存在だ。 きれいなの心を血で汚すのではないかと言う不安がどうしても付き纏う。 これで自身が佐助に懸想しているならば、また少し話は違っているのだが、には誰かを好きだと言う思いは見当たらない。 むしろ、ちび殿に対する有り余る愛情に敵う存在など、この上田にはいないように思える。 佐助がいくらの事を思っていようとも、その思いは届いていないのだ。 なれば、幸せにしてもらえる御仁に嫁いでいただくまでは、阻止せねばと考えてしまわざるをえないわけで…。 やはり…どうしても負けられぬ、な。 きゅと口端を引き締め、馬の腹に足で合図を送れば自然とその速度は上がっていった。 疲れさせない程度に走らせると、本当に賢い子だとよくわかる。 どれほど大事に育てられたかは、先日と宗秀から伺っていたが、その二人の自慢以上に良い馬だと思った。 お前も、栗毛には負けられぬよなと思うと、まるで呼応するかのように鼻息で返事が返ってきた。 良い相棒を見つけたようだ。 ほんの5日先までの短い間柄ではあるが、よろしく頼むとは風になびく淡栗毛に手を這わせた。 ■□■□■□ その夜、部屋で書簡をしたためていた幸村の元に文を携えた才蔵がやってきた。 「幸村様、流鏑馬の城内選抜が終了いたしました。」 「そうか、殿も出られたと聞いたが…。」 「こちらに…。」 才蔵が差し出す文を手に取り、かさりと開く。 見慣れた、かなり雑な宗秀の文字でその名が記されてあった。 「…なかなかに優秀な者のようだな。」 「馬上の姿に一切違和感がありませんでした。おそらく戦慣れしているものと思われます。騎馬兵に引き抜けぬかと騎馬隊の隊長が様に声をかけていたくらいです。」 とんでもないと首を何度も振っていたのはそのためであったかと、遠目で見た姿に納得する。 どうせならば自分も見に行けばよかったと、少なからず後悔する。 それほどならばぜひともこの目で見てみたかった。 …まぁ、それはあと5日後に叶う事であろうが…。 「珍しく宗秀が褒めておるぞ。」 明日はきっと花冷えの雪が降るなと笑う城主の姿に才蔵もほっと息を吐く。 どうやら他の名前には気取られていないようだ。 が、才蔵の願い虚しく、文に目を通していた幸村の視線が一点で止まる。 「天狐仮面殿も出られるのだな!…これはうかうかしておられぬ。」 文に目をやっていた才蔵がぎくりと肩を強張らせた事にも気づかず、幸村は他の名も拾っていった。 殿と天狐殿以外はすべてが騎馬兵に所属するものだ。 宗秀の選定なのだから、そうなることは予想していたが、ほぼ幸村の予想通りの形となった。 騎馬兵が5名にあとは殿と天狐殿、合計7名。 順番はすでにくじ引きが行われたようで決まっている。 そして、彼らの前に本当に一般の参加者が走ることになっている。 大分形作られていく祭りに、どうしても高揚感は抑えることができなかった。 選ばれた騎馬兵は、共に戦場を駆けたこともある人間ばかりだ。 あの時持っていたのは刀が主だったが、弓矢も相応に番えたのかと嬉しく思う。 彼らとて二人に負けず劣らず、馬上は誰よりも慣れているもの達だ。 彼らの当たり前と殿たちの当たり前に差が生じるような選定を宗秀がするはずもない。 つまりは他に落ちた騎馬兵達を差し置いてでも、二人が優秀だったと言う事になる。 なるほど、それならば騎馬隊がこぞって引き抜きにかかると言うもの。 前座と言うにはかなり技術の高い者達が集ったなと幸村は笑った。 ←back next→ |