第十八話




斑のある淡栗毛に乗った が馬を往なすように開始位置に現れた。

笠も被らず、ただ走るコースをじっと見据えているようで、真剣な顔をして、走る先を見据えていた。
緊張をしているのか、心持ち表情が硬い気はするが、それすらも彼女の騎馬姿を凛々しく見せていた。
手には重藤の弓を持ち、ピンと張った背筋はやはり誰の目から見ても美しく見えるらしく、観客にどよめきが広がっていく。

ふと、横に目を走らせるとうんうんと嬉しそうに頷く真田さんがいて、その何とも誇らしげな表情にふっと笑ってしまう。
自慢の彼女なんだなとひとしきり笑って、は腰に手をまわして体を支え続けている佐助を見上げた。


「猿飛さん、お願いがあるんですけど。」

「えー、面倒くさいよ。」

「………まだ何も言ってないんですが…。」


即答の却下にひくりと頬がひきつるように笑っていると、別のところから助け船が出された。


「佐助…。」

「はいはい、なんでしょー。」


………なるほど、 ちゃんのところの猿飛さんも真田さんには頭が上がらないわけで。
しかも、こちらの真田さん以上に、目の前の真田さんは穏やかで落ち着いた反応を示していたことは先ほどの態度からも知っている。
理詰めでもそうそう無茶なことをあまり言わない人なんじゃないだろうか。


…まぁ、こんなとこまで登ってきてしまうくらいにはやんちゃではあるみたいですけども。


この二人もいい関係だと一瞬だけ表情を緩めてから、もう一度猿飛さんの方に向けて顔をあげた。


「私を支えててくださいね?」

「は?え?」


今でもしっかり支えられているというか、全体重を二本の腕だけで支えてもらっている心苦しい体勢ではあるのですが。
もちろん自分の二の腕だけで支えられるものじゃないことは知っているけれど、猿飛さんをつかむ手を両方離すことを考えると、やっぱりどうしても念押ししてしまいたいのが人の心と言うか…。

まぁ…仮に落ちても骨折で済むくらい…なのと、下にいる人を巻き込むくらいだ。
大丈夫と言い聞かせて、肺いっぱいに大きく息を吸い込んだ。


「… ちゃああああああんん!!!頑張ってえええええ!!!」


自分が叫べるだけ精一杯の大きな声で。
いい年した大人がなりふり構わず叫ぶのはいささか恥ずかしいが、今日くらいはいいだろうとそれはもう力一杯。

喧騒に沸く会場の上を抜けていこうといわんばかりのそれは、注目させるには十分だったようで。
一瞬だけ、その場が水を打ったように静かになったかと思うと、どっと笑いが波のように伝播していく。
その笑いとともに応援も彼女の立つスタート地点に向けて伝わっていった。

口々と コールが沸き起こってしまって、いささかやりすぎたかと少しばかり反省して大きく笑う。
遠目に見える ちゃんに届いたかはわからないけれど、手を大きく振って身振り手振りでここにいるよとアピールする。


ここに真田さんも猿飛さんもいるよ。


私もちゃんと見てるよ。


さっきはごめんね。


音で伝えることはできなくても、どうか彼女に伝わりますようにと、たくさんたくさん手を振った。

もうそろそろ集中して精神統一したいだろうと、躍り出んばかりに前のめりだった体を落ち着け、再び猿飛さんの着物をひしとつかむ。
そんな私を支えていた猿飛さんから上がった声はうめきに近い不満声だった。


「………み…耳、が…痛え…。」

「くくく!なんとも力強き応援ではないか。」


そう言われれば猿飛さんって私を支えるために両手がふさがっている状態で。
いくら急に大きな声を上げたとはいえ、咄嗟に耳でもふさげばさほどダメージは受けなかったかもしれないけれど…。
それでも律儀に離さないでいてくれるあたり、やはりいい人なのだなと勝手に思う。

そして、そんな猿飛さんとは相対して驚くだけだった真田さんはおかしくて仕方ないといわんばかりに肩を震わせながら笑っていて。
いや、そもそもいつも大声を出す張本人なのだから、大きな音やらに慣ていただけかもしれないけれど。


「って言うか神事にその応援はないんじゃないの?」


なんと言うか台無し。
そう呟く声が後ろから聞こえてきた。

確かにこれを真田さんの時にやらかそうものなら、あとから怒られるんでしょうけど…。


「神事として行うのは武将さんたちですからね。 ちゃんたちは含みませんよ。」


彼女たちの演武はあくまでデモンストレーションであって、神に捧げる神事ではない。
そのためか、 ちゃんは武田菱の入った射篭手を身につけはしても、その上から各家の家紋が金刺繍で入った鎧直垂をつけていない。
あれをつけたらもっとかっこよくなるかなと思ったけれど…。

もちろん観客もそれを分かっているから私の応援に笑いで答えてくれたのだ。

こほりと小さな咳一つを残して、そのあとの二人には一切反応せず、 ちゃんだけを見つめる。
ぶち子が左右に首を振りながら力をためるよう首を少し下げる。
準備万端というあの子の合図だ。

そのぶち子を諌めるよう首に手をかけ が何かをつぶやくのが遠目にも分った。
もうすぐ走り出すのだ。
律儀な彼女のことだから、馬に何か頼みごとをしているに違いない。

馬の飾りと着物の色で口々と桜の精だと噂する見物客の声が徐々におさまっていく。
まるで本番さながら、武将が走る前のように喧騒が落ち着いた時、 ちゃんの足がぶち子の腹にあてらた。
今まで散々息まきながら抑えられていた馬がひときわ大きくいななき、目を見張るほどの速さまであげていく。

的が徐々に近づくと速度を上げるために前傾姿勢だった頭を上げ、背筋を伸ばしながら は矢を番えた。
無意識に握りこんでいた拳をぎゅっとさらに力を込めて、その様子をじっと目で追った




■□■□■□




春麗らかな縁側の下、すっかり花も散り去った桜をじっと眺めながらちゃんはお茶を啜っていた。
その方向はいつも が視線を向けていた新緑が芽吹く桜へと向けられたまま、一向に動こうとしない。


口でも態度でもそれと表したことはないけれど…間違いなく寂しがっているに違いない。


すっかりお守りになってしまった桜色の房を懐に入れたままにしている事も、それを時々思い出したみたいに触っているのも知っている。
が、去る直前の に押しつけるように渡した物と同じものだ。

その代りに、彼女の部屋には が外した鏑矢が花の代わりに花器に入れられていて、なんか部屋の殺風景さに磨きをかけていた。
そこは普通当てた的を厄除けとして渡すものじゃないかと思っていたのだけれど、外れた矢は縁結びの効果があるというのをはるか昔に聞いたことを思い出したのはつい最近のことだ。

なるほど、そういえばそういったことで自分に絡んでいたなと、思わず笑ってしまったくらいだ。
最後の最後までやってくれる。

そう思いながら、佐助はふ…と口元を綻ばせた。
そこにはあの以前抱いていたようなぎすぎすとした感情は一切ない。


「どうしました?」


俺の笑い声が耳に入ったのか、ようやくこちらに目を向けた彼女にいいやと返事を返す。


「ようやく普段の生活に落ち着いたなーって。」

「…そうですね。お祭りも無事終わりましたし、馬泥棒も一掃できましたし。真田さんも今頃お館様に祭りを無事に終了しましたと報告しているころでしょうね。」


あの3人のことは報告に入れるんですかねと笑うちゃんに、さあねとあいまいな返事を返した。
視線を上げて薄緑の葉に包まれた桜を見つめていると、すでにちゃん専用の長持ちの中にある鶯色の着物を身につけた の姿をついつい連想してしまう。

ここにひと月もいたわけではないのに色んなところで人の口々に上った桜の精は、本当に消えるように去っていった。
真実を知っている自分たちは普通の人間だと知ってはいるが、ほんのわずかしかその真実を知らなかった城の人間はやはり桜の花が落ちたから去っていったのだと半分以上が信じている。
あるものはがっかりし、あるものはまた次の年に来るだろうと楽しみにして。

それが本当かはわからないが、1枚失敗したのがどうにも悔しいらしく、むすりとしていたのが気になるといえば気になる。
なんとなくではあるが…あちらの桜祭りで練習して『りべんじ』に来るんじゃないかなんて、漠然と思っている。


そんなこと言ったら俺様なんて全部外したというのに…。


はぁとため息をついて、自分の中では不本意極まりない結果に苦々しい思いがよみがえってきた。

確かに1枚はわざと外した。
あくまで俺らは前座だからだ。
旦那が外す心配をしているわけじゃなく、他の古参新参の武将たちの顔を立ててと言ったところで。

で、後腐れなく と同じ枚数の残り二枚を射ぬこうと思っていたのに、こともあろうにあっちの佐助がやらかしやがって…。
どうしてそうなったかは知らなかったけれど、ちゃんを桜の木の上から落としたのだ。

いくら下に才蔵を配置していたとはいえ、桜の木の上でふらりと傾いだ体を見た時は本気で冷や汗が背中に浮かんだし、矢を射る動作すらできなかった。
多分、本気であっちの佐助が一瞬でも焦った表情を浮かべていなかったら、鏑矢で眉間を狙っていたかもしれない。


それを思い出してむすりと不機嫌な表情で、湯呑を呷った。


しかもそれを見とがめたのは俺だけじゃなくて、流鏑馬を終えた もで。
馬を宗秀に預けてから慌ててそちらへ向かうと、自分が出る幕がないほどの剣幕で佐助を問い詰めているのをちゃんが宥めているという図がすでに出来上がっていた。

才蔵にどうしたのかと問うと、どうもちゃんたちが陣取っていた位置からは疾走するすべてが見渡せなかったらしく、それを見ようと体を乗り出したちゃんが自分から足を滑らせたらしい。
ちゃんと受け止めたので無事ですという冷静な才蔵の言葉に、僅かばかり安堵するものの、それでもやはり落としたことは褒められるべきことじゃない。
それを祭りだから嫌な雰囲気はおしまいというちゃんの言葉でどうにか機嫌の悪さを全員で無理繰り飲み込んで。

旦那の疾走で幕を閉じた流鏑馬は奉納の式典を見るため会場を神社へ移した観客の波に浚われるように静かになった。


「しかし、お祭りは本当に圧巻でしたね。」


あの出店が面白かったとか、おいしかったとか、矢継ぎ早に祭りを振り返るちゃんの顔は、本当に楽しかったという表情に溢れていて、一見すると祭りの日から浮き立ったままの姿にしか見えないんだけど…。


でも、俺は知ってる。


寂しい時におしゃべりになる癖があることも。


その前に黙っていたのは彼女たちのことを考えていたんだろうってことも。


何より、ちゃんが今、陣取っているそこは、彼女がいつも座っていた場所そのものだ。
あの時いつも旦那がいたところに、今自分が座っている。

今ここで、あの時彼女たちが見ていた風景は花が綻ぶ様子だったが、今自分たちが見ているものは散ったあとの桜だけだ。

それだけ時間も過ぎていった。
だから、こうやってちゃんは思い出しているんだろう。
寂しさを紛らわすために。
たった何日間かの存在だったのに。


「…あのさ、」

「はい?」

「寂しいって言っていいんだよ?」

「え…。」


そういうと、本当に驚いたようにちゃんが慌てて振り返った。

うまく隠してるつもりだろうけど…ばれてるよ。
俺様を誰だと思ってるの?

苦笑いをこぼして、もう一度湯呑を呷る。
ふと目に入ったのは彼女の手の中にあったそれで、湯気を湛えたまま全然量が減っていなかった。

ほんと一つのこと考えだすと行動とか止まるよね。

もう一つついでにと苦笑いをこぼして、


ちゃんって他のこと気に病んでると会話が止まるし、急に饒舌になるよね。」


くつくつと笑いながら指摘してやると、ぴたりとその動きが止まる。
全部ばれていることを伝えたとたん、ばつの悪い顔をしてすぐに視線を反らしてしまった。

まさかばれてないって思ってたの?
旦那ですら気が付いているというのに、相変わらず自分のこととなると抜けてるなぁ…。

なんて失礼なことを思いながら、桜に視線を合わせて口を開いた。


「……… ちゃん帰って、寂しいんでしょ?」

「うぐ…。」

「俺ら…って言っても旦那は今甲斐だけどさ…俺様とか事情ちゃんと知ってる人くらいには愚痴こぼしてもいいでしょ?」


ちゃんの方へは視線を向けず、じっと前を向いたまま。

みずみずしい黄緑の葉を揺らす桜だけが、なにも の残したものじゃない。
それをじっと見つめることで思いが晴れるならまだしも、寂しさを募らせるんならもっと別なことをして紛らわしたらいいのに。
気軽に会いたいと思って会える人間じゃないからこそ、その存在を知っている自分たちに言うくらいしたらいいのにねぇ。

それでも強情なちゃんは、泣きごとと思えるそれを口にするとは思えないけど。

案の定、言葉に詰まったまま言いあぐねている姿に、変わりになればとその思い出を一つ拾ってきてあげた。


「しかし、残していったものがまさか外した鏑矢とはねぇ…。ちゃんはちびの房、渡したって言うのに。」

ちゃんが他に持っているのって手ぬぐいと刀くらいでしたし。両方とも渡そうとしたら断わってましたよ。」


まぁ、あれだけ手拭いに執着していたから、それを渡すなんてありえないだろうし、刀なんてちゃんが使える代物じゃないしね。

特に刀なんぞを渡された日には、どうやって隠そうか忍隊全員で会議になっていかもしれない…。
使えない代物だからこそ諸刃になることはちゃん自身わかっているだろうけど、それでも憂いは一つでも遠ざけておくに限る。
何よりもちゃんに甘い忍隊が放置しているとも思えないし。

うん、間違いないと確信に頷いていると、こてりと首を傾いだちゃんがおもむろにこちらを向いた。


「でも…あの鏑矢、何の意味があるんですかね?」

「あれ?知らなかった?」

「はい。猿飛さんは知っているんですか?」

「あー…うん、一応知ってる。」


いわれまでは覚えてないけれど、良縁に恵まれますようにという意味を持つそれを、そのまま言おうか一瞬迷う。

の言いたいことは分かっている。
俺様が幸せにできないのならもっと別の、ちゃんを幸せにしてあげられる人に嫁いでほしい。

自分から言わせてもらえば、あぁやって反論した手前嫌味にしかならないそれも、単にちゃんに幸せになってほしいからで。

縁と言うのは嫁ぎ先なんかが一番に挙げられるけれど、彼女が願ったのはそれだけじゃないような気がして。
今後出会うであろう人たちとの縁も含めて、の顔が笑むように結びついてほしいと願っているんじゃないかと。


そう願った彼女は、ちゃんの側に四六時中居れるわけじゃないからこその願いなんだろう。


それこそ、ここにいた時ずっと目で追っていたようにできないのだから。


には の生活が向こうにある。
旦那に仕えている以上、それらを忘れてこちらにいるというのは残念ながら叶うことじゃない。

当然ながらちゃんを向こうに連れて行かれるのも許すわけにはいかない。
何より警戒心丸出しの俺様がいる中にちゃんを連れていくとか、それこそありえない。

それだけは と完全一致の意見で、そのあと市を回っていた時にこっそり向こうの佐助を見張っていたのには笑ったけれど。
信頼を失うほどではないにしろ、盲目的ともいえる刷り込みは付き合いの長さじゃないんだなと、妙に納得してしまった。

そんなことを一切知らないちゃんは、どうにも意味が気になるらしく俺様が答えをくれるのを、首を傾いだまま待っていた。


「…何の意味があるんですか?」

「…。」

「…?」

「………知らない方が、いいかもしんない。」

「え!?…… ちゃんのことだから、悪いこと、じゃないとは思うんですけど…。」


それは天地がひっくりかえってもありえないだろうね。

俺様は嫌味と取ったけれど、彼女からすれば本気で純粋にちゃんの幸せを願ってのことだということもわかる。
だからこそ…裏の意味まで読んでしまう自分やちゃんにとっては純粋に受け取ることもできないんだろうけど。

…ということも含めて言い淀んでいたのだが、そちらの方がどうにもちゃんにとっては気になってしまったらしく、じとりとした視線を向けて、珍しく言い募ってきた。


「その含んだ言い方はあんまり気持ちのいいことじゃないんですが。」


そりゃ、教えてもいいんだけど…聞いて後悔しないようにしてね?


「良縁に恵まれますように、だったはず。」

「…うぐ。」

「ほら、聞かない方がよかったでしょ。」


がくりと項垂れる頭を見て、やっぱりねと佐助は大きく笑った。


「どうせ…どうせ私なんて…この時代では行き遅れているかもしれませんけど!… ちゃんは適齢期だし相手もいるからいいかもしれないけど…うぅっ…。」

「嘆かない嘆かない。」


ぽすぽすと軽く頭を撫ぜながら、やっぱりそっちの意味でとるよねと肩をすくめた。

残念ながらちゃんの望むとおりにあっちの旦那が彼女を娶るかは俺様にも自信を持っていうことはできるものじゃない。
お互いがそう望んでいるんだろうなということは雰囲気でもわかりえたことだが…願いがすべて叶うほど、この世は甘いものじゃない。

それを、誰よりもわかっているからこそ、その願いを鏑矢に託したのだろうけど。


人の思惑ではなく、国の思惑でもなく、自分の意見で立つちゃんの行く先を見通す矢になるようにと。


にとって、そんな願いを託したくなるほど、ちゃんの存在が大きかったから。


その先にあるのが…自身の幸せにつながるのならば、それこそ相手は佐助にとって誰であってもよいのだ。
それが、たとえ自分であっても?

ふと浮かんだ思いを打ち消そうとするが、からかいになるかとにやりと口を歪めて、わざとの手をとってこちらに注目を向けた。


「……ならさ、どこにも行くあてなかったら、俺様んところに嫁いでくる?」

「え。」


手を撫ぜさするとがちりと固まってしまう。
ほんとからかいがいがあると、佐助はくつくつと笑った。

が、一向に離す気配のない手を、今度は彼女の方から握りしめられる。


「…………それもいいですね。」

「はっ!?」


ぼそりと呟かれた冗談返しに、今度は佐助が固まる番だった。




←back next→