第十九話




 結局、に渡すことができたものといえば、流鏑馬で外した矢だけだった。
 たくさん、もらったのに。
 優しく接してくれて、手を差し伸べてくれて、笑ってくれたのに。
 大切なはずの、桜の色の飾り房までもらってしまった。
 それに見合うだけのものを、返したかったのに。
 にできたことと言えば、矢に願いを込めること、それだけ。
 それでも、は笑ってくれた。
ちゃんがそう思ってくれてるっていうことだけで、私はすごくうれしいんだよ。恩に報いたいっていうなら、それでもう充分」
 まるで、春の桜みたいな、笑顔だった。
「だから、ね。私と、――友達に、なってくれないかな」
 上手く言葉を返すことすら、できなかったのだ。
 ただ、頷き返すこと、以外は。








 秋晴れの空の下、上田城本丸広場には、規則正しい間隔で矢が的を打つ音が響いている。
 矢を番えているのはで、弓引くその姿は作法通りで美しい。放たれた矢が的の中心を射止めることは多くはないが、的を外すことはまずない。
 広場に面した濡縁では、幸村が腰を下ろしてその様子を眺めている。
 は集中するとそれにしか気が回らなくなる性格であるし、幸村も特に口ははさんでいないから、時折山雀の鳴き声が聞こえる他は静かなものだった。
「・・・・・・よくやるねェ」
 声が聞こえて、幸村は傍らに視線を流した。
「佐助」
「旦那、お茶でもどう?」
「うむ」
 佐助から差し出された湯呑を受け取って、幸村は再びの方へと視線を戻した。
 その様子を見て、佐助が眉を下げる。
「あれから毎日、よく飽きないね」
「流鏑馬で一本外したのが、よほど悔しかったのだろうな」
 幸村の返事に、佐助は後ろに控えながら苦笑した。
「いやちゃんじゃなくてさ、旦那も毎日毎日ここでこうして見てるじゃないの」
「・・・・・・仕事なら、終わらせてきたぞ」
「知ってる、別に説教しにきたわけじゃねぇよ」
 佐助を振り返って、その顔がにいと笑っているのを見てから、幸村は息を吐く。
「・・・・・・佐助」
「うん」
「・・・・・・俺は、ひどく、了見の狭い人間だ」
「うん」
「・・・・・・否定せんか」
 不貞腐れたような声に、佐助は笑いを噛み殺す。
「だってアンタが猪突猛進なのは今に始まったことじゃないでしょうが」
「・・・・・・もうよい」
 ふい、と顔を背けた幸村に、佐助は眉を下げながら、口調だけは慌てたように言い繕う。
「ごめんってば、それでなに、どうして了見が狭い話になったの」
「・・・・・・」
 幸村はもう一度佐助の方へ顔を向けて、面白そうに笑う顔をじとりと睨む。
 そして、幸村や佐助のことは眼中にないかのように弓を引き続けるの方へ顔を戻して、口を開いた。
「・・・・・・の懐には、殿から頂いた飾り房が、入っておる」
「うん」
は物を持たぬ。あの者が絶えず身に付けるものとすれば、刀の他には、――俺の譲った手拭いくらいしか、なかったのだろう」
「うん」
「そこに、あの桜色の房が増えた。にとって大切なものが増えたことは喜ぶべきことなのだろうが、」
 そこで、言葉が、切れた。
 たん、との矢が的の中央を射た音が響く。
 は、表面上は無感動な様子でそれを確認して、次の矢を手に取る。
「・・・・・・俺は、それを、面白くないと、思った」
「・・・・・・うん」
 佐助は微苦笑で、相槌を打つ。
「無事に戻ったとはいえ、此度のことはまこと、生きた心地がせなんだ」
 幸村が、両手で持つ湯呑に、視線を落とした。
「俺の手の届かぬところで、が傷つくようなことがあってはならぬと、ずっとそう考えておったはずなのだが、こうして思えば、が離れていくことが、その心が他のなにかに奪われてしまうことが、俺は何よりも恐ろしかったのやもしれぬ」
 その声はどこまでも穏やかで静かで、
「俺やお前、それだけがの関心事であればよい」
 そして、わずかに自嘲の色を含んでいる。
「――などと、俺が考えていると知れば、は如何様な顔をするのだろう」
 風が吹く。
 結い上げたの髪がふわりと動いて、放たれた矢は、的の中心を大きく外して端に突き立った。
 は相変わらず表情を変えることなく、黙々と次の矢へ手を伸ばす。
「・・・・・・よく考えたらちゃん、風使えば的外さないんじゃないのかなぁ。あの子風で相手の刃筋ずらしたりできるでしょ?」
 ぽつりとつぶやくような佐助の言葉に、幸村は小さく笑った。
「たとえそれができても、はやらぬ。ここが戦場であれば別であろうが、お前もわかっておるだろう」
「まぁ、そうでしょーけど」
 会話が途切れる。
 しばらくの間、矢が的を打つ音だけが、その場に響いた。
「・・・・・・それにしても、旦那もいっぱしに嫉妬するようになったんだねェ」
「・・・・・・嫉妬?」
 いつもどおりの軽妙な佐助の声色に、幸村は訝しげに聞き返した。
 佐助がにいと口角を上げる。
「すーごい心配して、いてもたってもいられなくて、漸く迎えに行けたと思ったら、なんだかちゃんはそれはそれで楽しそうに流鏑馬なんか出ちゃったりして、それが全部さんのおかげで、ちゃんはさんに並々ならぬ想いを抱いてるみたいだし、つまり旦那はさんに嫉妬してンでしょ?」
 一呼吸おいて、佐助の言葉を理解した幸村の顔色が、がつりと赤くなった。
「なッ、おおお俺はそのような!」
「否定はできないよねェ?面白くないって言ったとこじゃない」
「ならばお前はどうなのだ!のおらぬ間、心配しておったのはお前も同じだろう!」
 睨んでみても、佐助は捉えどころのない笑顔を変えない。
「えー?そりゃあしますよ嫉妬。俺様ってば旦那と違って素直だからァ、もうこんなことは絶対御免だからいっそのことちゃんをどっか旦那の傍に閉じ込めようかとか思うしィ」
 間延びしたような佐助の言葉に、幸村は幾分落ち着いたように声の調子を落とした。
「・・・・・・だらしのない話し方で茶化すな」
 幸村の、呆れの色の濃い返事を聞いて、佐助は嘆息する。
 そして、弓を引く手を休めないへ、視線を移した。
「・・・・・・ねぇ、旦那。ちゃんがこっちに戻って毎日、弓引いてる理由、知ってる?」
「それは、あちらの流鏑馬で的を外したのが悔しかったのだろう?」
「それもあるだろうけどさ、ちゃん、来年こっちの桜祭りで流鏑馬に出るつもりなんじゃない?」
「!」
 幸村が弾かれたように佐助を見た。
 佐助の視線は、の方を向いたままだ。
「ウチのはまぁ、旦那とか、限られた人しかやらないわけだけど、その辺りの事情はあの子たぶん知らないでしょ、今年の春はそれどころじゃなかったし。で、来年流鏑馬に出るとしたら、間違っても的を外すわけにはいかない。旦那の見てる前だし、そもそも旦那の顔に泥塗るようなことはできない、――とか、考えてるんじゃないかな」
 薄く笑ったまま、佐助は幸村に視線を流した。
「ちょうどいいじゃん、ちゃんの流鏑馬衣装一式、仕立て屋に注文してたでしょ」
 ぎくりと、幸村の肩が強張る。
「な、知っておったのか」
「アンタあれでこっそりやってたつもりだったわけ・・・・・・?」
 げんなりと佐助が言うと、幸村がぐうと唸るような声を漏らした。
 こちらに戻ってきて早々に、幸村が城下の仕立て屋に水干(すいかん)や射籠手(いごて)を注文したことを、忍隊の全員が把握している。採寸が以前の陣羽織を仕立てたときと同じであることも。
 忍隊には隠し事などできぬと、主人たる幸村は最も良く知っているはずなのだが、こういうところで旦那は抜けてるんだよなと佐助は思った。
「・・・・・・つまりはさ、優先順位の問題だろ?ちゃんにとって大切なものがこれからも増えていったとして、その中で旦那が一番なら問題ないじゃない」
 佐助の言葉に、幸村は視線を落とす。
「一番、だろうか」
「それはご本人に聞いてみたらー?」
 くすくすと笑いながら、佐助は立ち上がる。
「どこへ行く?」
 気づいた幸村の問いに、佐助はにこりと笑った。
「お茶、おかわり淹れてくるから。ついでに茶菓子も持ってくる、団子作ったからさ」
「まことか!」
「まことまこと。ほらちゃんも誘ってやんなよ」
「うむ、」
 眼を輝かせた幸村が、腰を浮かせてを呼ぶ。
!」
 その声に、初めてがこちらを見た。
 やはり幸村たちの存在に気づいていなかったらしく、驚いたのかわずかに眼を丸くしている。
「そろそろ休憩にせんか!」
 が頷いてわずかに頬を緩めたのが見える。
 それを嬉しそうに見つめる幸村を見下ろしてから、佐助は踵を返した。
 その口元には、穏やかな笑みが宿っている。
 







   幸村の隣に腰を下ろして、はうっすらと汗を掻いていた額に、手拭いを押し当てた。「幸」の刺繍が入ったあの手拭いだ。
 濡縁は陽当たりがよく、ぽかぽかと暖かい。その心地よさに、わずかに眼を細める。
「肩はもう痛まぬか」
 幸村の問いに、は仏頂面で答えた。
「・・・・・・毎日聞くのだな」
「撃たれたのだぞ、昨日痛まなかったからとて今日痛まぬとは限らぬ」
 当然のようにそう言う幸村の顔を見て、小さく息を吐く。
 確かに一時はバサラが使えぬほどの大怪我ではあったが、傷の治りが常人よりも速いことは同じバサラ持ちの幸村も知っているはずである。そもそも銃創くらい、幸村も見慣れたものであろうと、は思う。
「もう、傷も塞がっているし、動かしても痛くはない」
 ぶっきらぼうに答えれば、幸村は眉を下げた。
「そうか?ならばよいのだが」
 幸村の様子に、はぐ、と言葉に詰まる。
 こういうときの幸村は、まるで叱られた犬そのもので、は何やらいたたまれない心持になるのだ。
 そう、今のは言い方が悪かった。
 心中で反省して、は口を開く。
「・・・・・・心配を、かけたのだな。・・・・・・申し訳、なかった」
「そなたが謝ることではない。確かに不思議なものだったが」
 叱られた犬状態から脱した幸村が、ふわりと微笑む。
「こうしてそなたが無事に戻ったのだから、それでよい」
 は、その幸村の笑顔にしばし見入る。
 ああ、幸村だ。
 帰ってきたのだと、思う。
「今日は佐助が団子を作ったそうだ、もうすぐ持ってくるだろう」
「そうか、それは楽しみだな」
 は上機嫌に答えた。
 うむ、と頷いて、幸村が言う。
「あちらの佐助の団子も美味いのだろうか」
「どうだろう、あちらの佐助も団子を作ったりするのだろうか・・・・・・、」
 は記憶を巡らせた。
 あの佐助はどちらかというと、炊事などより忍びの仕事に徹していたような、気がする。
 もしかしたら、平時であれば、あの佐助も団子を作ったり茶を淹れたりするのかもしれない。
 何しろあの佐助にとっては、があちらに行ってしまったことが異常事態であっただろうから。
「・・・・・・わたしが現れたことで、あの佐助は殿に付ききりだったから」
 の言葉に、幸村が気づいたように答えた。
「そういえば、殿はやんごとなき立場の御方であられるようだったな」
「あちらの信玄公のお客人なのだそうだ、だがそれを差し置いても、」
 そこで言葉を切って、は周囲に視線を巡らせる。あわせて風まで使って、気配を探った。
?」
 風の動きに気づいた幸村が首を傾げたが、は答えずに、近くに佐助がいないことだけを確認してから口を開いた。
「・・・・・・あの佐助は、殿を恋い慕っておるのだ」
「なんと、佐助が?」
 目を丸くする幸村に、は頷いた。
「本人はそうとは言わなかったが、あれはどう見てもそうとしか考えられぬ」
「そうか・・・・・・、佐助が、なあ・・・・・・そうか、」
 驚いたのだろう、幸村は「そうか」と繰り返している。
殿のお気持ちはまだわからぬ。だが、できることなら、佐助と、」
 は視線を空へと向ける。
 季節も、時の流れも、違うかもしれない。それでも、この空を、どこかでも見ているのだろうか。
「――佐助と、幸せになってほしい」
「そうか、」
 幸村は笑って頷いた。
「そうだな」
 もしかしたら、佐助は向こうの佐助がに抱く想いに気が付いていたのかもしれない。
 流鏑馬の馬場で、を木から落としたことを思い出して、はわずかに頬を膨らませる。
 まったく、に怪我でもさせたらどうするつもりだったのか。
 あのときもひとしきり怒ったのだが、思い出すとなにやら腹の底がむかむかした。
 そして、考える。
 佐助がと何を話したのかはわからないが、の見る限り、どうやらに対して何らかの興味を持ったようだった。
 それは、あちらの佐助がを大切にしていることに、気付いたからなのではないか。
「あ奴にもいつか、そのような相手ができるのだろうか」
 幸村の言う「あ奴」はこちらの佐助だと理解して、は答える。
「そうだといいな」
「しかしあ奴が聞くと嫌がりそうな話だ」
「・・・・・・わたしも、そう思う」
 困ったものだと、幸村が言うのに、はゆっくりと頷いた。
 そしては、視線を落として目元を緩める。
「ひとを想う気持ちは、尊いな」
 持ったままにしていた手拭いを見下ろして、は静かに言う。
 その、刺繍された「幸」の字を、見つめながら。 
「わたしは、殿が大切で、いつも笑っていてほしいと思っている。佐助も、そうやって誰かを想うことができるのだと、知ることができた」
 幸村は、黙っての言葉を聞いている。
「そして、貴方を想う気持ちがあったから、わたしはここに戻れると信じることができた」
 が顔を上げて、幸村を見た。
「幸村殿」
 ぴたりと視線を合わせる。
「わたしは、貴方をすきになって、よかった」
「・・・・・・」
 幸村が、顔色を失った。
 言葉を探すように何度か口を動かして、息をつく。
「・・・・・・、俺は時折、そなたには敵わぬと思い知らされる」
 吐息交じりのその言葉に、はきょとりと瞬きをした。
「何を申される。武術にしろ立ち居振る舞いにしろ、わたしが貴方に勝ることなど何一つないぞ」
「・・・・・・」
 の言葉に、幸村は両手で顔を覆ってしまった。
 はー、と長く息を吐く音が聞こえて、はわずかに狼狽える。
「幸村殿?」
 呼びかけへの応えはなく、たださっと伸ばされた幸村の両腕が、些か乱暴にを抱き寄せた。
「いッ」
 幸村の力に容赦はなく、はその鍛えられた胸板に鼻の頭を強かに打って思わず呻いた。
 ぎゅう、と抱きしめられて、もがこうにも身動きが取れない。
「あの、幸村殿、くるし、」
「あー旦那今顔真っ赤だからさァ、ちょっと我慢してあげてよちゃん」
 からは見えないが、佐助の声が頭の上から降ってきた。
「何を言うか佐助ェ!」
 慌てふためいたような幸村の声が聞こえて、抱きしめられる力がさらに増す。
 正直なところ打った鼻は痛いし若干呼吸も苦しいのだが、耐えられないほどのものでもない。
 あたたかいしまぁいいかと思って、は瞼を降ろす。
 






 佐助の闇の力を使うことで、のいる世との行き来が可能なのだと、は聞いた。
 折を見てまた、会いに行こうと思う。

 ――殿は、わたしの、友人だから。




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