第十七話




 こらえきれないとばかりの笑い声に、はすぐ上の佐助の顔を見上げた。
 この「佐助」はの知る佐助以上に厄介そうな気が薄々していたのだが、ずっと張り付けていた笑みを取り払って上機嫌に笑う様に、はわずかに眼を丸くする。
 正直なところ何がそんなに楽しいのかさっぱりわからないのだが、これがのよく知る佐助なら、初対面に近いような相手を前に素の笑顔を見せるなんてことはありえないような気がする。そうすると、この佐助はの知る佐助より、感情の起伏が表に出やすいのかもしれない。
 ・・・・・・というより、少し、子どもっぽい、・・・・・・ような?
 姿かたちはもちろん、話し方も声の抑揚も表情の動きも、の知る佐助とまったく同じに見える。だが、この佐助が何か違うと感じるのは、その一点だった。憧憬を感じて、微笑ましいと思ったのも、きっとそのせいだ。
「何?」
 見上げていたことに気づかれて、は首を振る。
「い、いえ、何も」
 視線を彷徨わせるようにしてから、誤魔化すように馬場の方へ顔を向けた。
 いくらなんでも微笑ましいなんて思われているなどと知ったら、この佐助もいい気はしないだろう。
 そう考えながら、は馬場を見下ろす。
 神社の境内から街へ伸びるように作られた馬場の周りには人だかりができている。先に場所取りをしておかなければ後ろの方からはもはや騎射の様子が見えないだろう。を抱いた状態の佐助が立っている枝は観衆の頭上、相応に高いところにあるので、視界を横切るものといえば舞い散る桜の花びらくらいのものだ。
 馬場は直線で、百二十間と聞いたから、現代の長さで言うと二百二十メートル弱。その間に三つの的がたてられている。的は馬の準備の時に間近で見せてもらった。正方形の檜板で、外側から青・黄・赤・白・紫の五色の円が描かれている。馬が走るところから的までは五メートルくらいといったところか。そのすべてがここから見下ろせる。なかなか壮観だと、は思った。
 わざわざこんなところまで、しかも抱きかかえて見せてくれるくらいだから、この佐助も悪い人間ではないのだろう。
 のよく知る佐助と、同じように。
「――成る程、ここは見晴らしが良いな」
 唐突に真横から聞こえた声には驚いたが、それ以上にを抱えている佐助の腕が、明らかに強張ったのがわかった。
「・・・・・・、旦那。何してんの」
 首を巡らせると、いつの間にか真横に袴姿の若い男の姿があった。目深に被った笠を右手で少し持ち上げて、そのひとはに礼をした。幸村の顔だ。こちらの幸村は今頃馬上であるはずで、そうするとこのひとはの方の幸村だと判断して、は首だけで会釈を返した。無礼だろうとは思うが、今は身動きが取れないのだ。
 から佐助へ視線を移した幸村が、わずかに頬を膨らませる。
「何とはなんだ、お前だけこんなところからの雄姿を見ようとしておったのか」
「いや俺様はなんつうか、さん連れなんだけど・・・・・・、ってか、よく登ってこれたね、結構高いよここ」
「お前に登れる場所に俺が登れぬ道理はなかろう」
「・・・・・・」
 佐助がげんなりと息を吐いたのがわかった。
 そのやりとりが可笑しくて、は笑いを噛み殺す。
「・・・・・・何笑ってンの」
 殺しきれなかった。
 は観念して言う。
「すみません、ただ、お二人を見ていてやっぱり真田さんと猿飛さんなんだなと思って・・・・・・。なんだか不思議な感じがします」
 のその言葉に、幸村が笑った。
「確かに、不思議でござりまするな。ここは確かに上田であるのに、某の知る上田ではないようでござる」
 そう言って、感慨深げに眼下の馬場の様子を眺める幸村を、は見上げる。
 この幸村に謝らなくてはいけなかったのだ。
「あの、真田、さん」
「は、何でござりましょう」
「その、・・・・・・ちゃんの、顔の、怪我。私を助けたせいで、・・・・・・その、ごめんなさい」
 佐助の周りの空気が、ぴりりと緊張したのがわかった。
 が幸村に謝ろうとしていることについて、佐助がよく思っていなかったことを、先ほどのやりとりでも理解している。
 それでも。
 幸村にはきちんと、謝らなければならないと思ったのだ。
 当の幸村は一瞬眼を丸くして、そして眉を下げた。
殿が謝られるようなことは何一つござらぬ。はあれで、幾度もの戦を潜り抜けてきた武人だ、あの程度は手傷にも数えぬ、と――本人も申しておった通りなれば」
 が、弾かれたように顔を上げる。
 幸村が苦笑した。
「先ほどの、殿の会話を、某は聞いておりました。ちょうど、を探しておりましたゆえ・・・・・・、偶然とはいえ、立ち聞きしたこと、お詫び申し上げる」
「そんな、謝っていただくようなことでは、・・・・・・、あれはその、なんていうか、私も言い方が悪かったんです」
 との噛みあわない会話を思い出して、は沈んだ様子で答えた。
 そのを、面白くなさそうな顔で見下ろしてから、佐助が幸村の方を流し見る。
ちゃんが武人だとかよく言うよ、消し炭にするとか言ってたクセに」
「それは、なんというか、言葉の綾というやつだ」
「どーだか」
「お前こそ皆殺しなどと言っておっただろうが」
「そりゃなんてゆうか、その場の勢い?みたいな」
 丁々発止のやりとりに、の頬が緩む。その様子を見下ろして、幸村が安堵のような息を吐いてから、馬場へ顔を向けた。
「・・・・・・殿の仰ること、某はわからなくもないのでござる」
 がぱちりと瞬きをする。
「え、」
「己よりも誰かを優先したいという思いは、某にも身に覚えがござりまするが、優先される方は往々にしてそのようなことを望んではおらぬのだ」
 言いながら幸村が佐助に視線を投げて、気づいた佐助は嫌そうに眼を細める。
「アンタはそういう立場のお人でしょうが」
「・・・・・・という、難儀な忍びが某にもおりましてな」
 佐助からに視線を移して幸村は小さく笑う。そして馬場の、の方へ、視線を向けた。
「あの者もなかなか難儀でございまする、某もあまり詳しく知っておるわけではないのだが、おそらくはこれまでずっと、誰かのためにしか生きてこなかったのだろう」
 そう言う幸村の横顔が、穏やかに笑っているのを見て、同じ幸村でも佐助と同様、違う部分もあるのだと、は思った。
 幸村のこんな表情はなかなか見かけない。
 あるいは、の知る幸村も、誰か想う相手ができれば、こんな顔をするのかもしれない。
 は幸村の顔を見て、確信していた。がこの幸村を想うのと同じように、幸村もを想っているのだと。
「だから、殿のようなことを仰ってくださる方にが出会えたのは、にとってようござりました。同じ目線で話ができる友とは、何よりも得がたきものにござる」
 友。
 その言葉に、は睫毛を震わせる。
「そんな・・・・・・、私は真田さんや猿飛さんや、・・・・・・ちゃんとは、違って、・・・・・・戦なんて無縁の場所で育ちましたし・・・・・・、」
 どんどん声が小さくなっていく。
 情けないとは思うのだ。思うけれど。
「友、だなんて・・・・・・」
 友とはなんだったかと、は記憶を巡らせる。
 現代にいたころ、は会社勤めをしていて、職場には仲の良い相手が少なからずいた。しかしあくまで仕事の場であり、彼女たちは友人というより同僚である。学生時代からの付き合いがある相手は確かに友人と言えるが、あの子とはどうやって友人関係になったのか、古い記憶はおぼろげだ。確か必修授業で席が近かったとか、きっかけはそういうことだったような、気がする。
 思い返せば社会人になって数年、積極的に誰かと友達になろうとしたことはなかったのだ。
 この世界に来てからは、佐助や、幸村や、たくさんの人たちがの周りにいてくれた。偶然だったり必然だったり、の努力の結果であるところもあったが、彼らは友達かと聞かれれば、それは首を捻らざるを得ない。
 ・・・・・・酒飲み友達、というくくりにするならば、お館様は友達なのかもしれないけれど・・・・・・。
 考えてから、内心首を振った。いくらなんでもそれは、畏れ多すぎる気がする。
「どうか、お顔を上げてくだされ、殿」
 考え込んで顔を俯けていたの頭上から、幸村の声が振ってきた。
はあの調子だからご迷惑をおかけするようなこともござろうが、どうかの友人となっていただきたい」
「ですが・・・・・・、私なんかでは・・・・・・」
「お嫌でござろうか」
 その言葉に、は顔を上げた。
「嫌なんかじゃないです!」
 弾かれたように顔を上げたの視線が、こちらを真っ直ぐと見つめる幸村のそれと正面から合って、は思わず眼を逸らしてしまいそうになるのをなんとか堪えた。自分の知る幸村とは違うのだとわかっていても、なんだかこの幸村は少し大人びて見えて、こうやって見つめられると気恥ずかしい。
「全然、まったく、嫌なわけがなくて、ただ、ちゃんは私に幻滅したんじゃないかと、思いますし」
 ――『わたしは貴方に、何を返したらいいのだろう』
 先ほど、そう言った、の顔。
 まるで、神さまでも見るかのような、祈るような、縋るような、眼だった。
 何の力も持たない自分を天女と呼ぶひとたちと、似ているような、気がした。
 何もできないのに。
 私は、ちゃんが期待するような人間じゃ、全然ないのに。
「――じゃあ俺様がちゃんに言ってきてあげよっか?」
 しばらく幸村とのやりとりを見守っていた佐助が、口を開いた。
 が見上げる、その視界の中で、佐助が酷薄に笑う。
「『あなたはわたしが嫌いみたいだからわたしもあなたを嫌います、だからお友達にはなれません』ってさ」
「な!」
「ダイジョーブ、あの子そういうことに対しての割り切りはものすごいイイから、ちゃんとあっさり承諾してくれるよ?だからって礼を失したりしないし、きちんと『真田幸村』にもアンタにも挨拶してからこっちの世界とはオサラバ、あの子が望まない限りもうここには来ないし、後腐れもなくっていいでしょ?」
 佐助のその物言いに、は眉を跳ね上げた。
「何てこと言うんですか!ちゃんが、もしかして本当に、私のこと嫌いになってしまったとしても、それが理由で私がちゃんを嫌ったりしません!」
 自分で言ったその言葉はの心にもすとんと落ちるようだった。
 そう。
 たとえに幻滅したとしても、それを理由にを嫌うなどということはありえない。
 生まれた世界が、育った環境が違うから、そんな理由であきらめるのはまだ早い。
「やめぬか、佐助」
 幸村の窘める声に、佐助は悪びれた風もなくひょいと肩をすくめて見せた。
「お気を悪くなさらないでいただきたい、殿」
「いえ、そんな」
殿さえお嫌でなければどうかと仲良うしてやってくだされ」
 幸村の言葉に、は今度は頷いた。
「わかりました、ちゃんにも帰る前にちゃんと話します」
 言ってから、はたと気が付く。
「・・・・・・帰れる、んですよね?と、いうか、どうやっていらっしゃったんですか?」
 幸村を見ると、幸村が佐助の方へ視線を移したので、つられては佐助を見上げた。
 佐助は、例によって得体の知れない顔でにこりと笑う。
「んー、ナイショ」
 可愛らしく首まで傾げてそう言う佐助を、はなんとなく無表情で見上げた。
 顔こそあの整った「猿飛佐助」のものだが、どうもやはりいつもの佐助とは違う。
 そもそもこうやって抱きかかえられているのに、ひとつもどきどきしない。
 いつもこういう態度をとれれば、あの佐助も自分をからかわなくなるのだろうか、とは思う。
 あの佐助はからかってが慌てるのを面白がっているだけ、そのはずなのだから。
 それより、と思考を元に戻す。
 今のやり取りで、どうやらこの幸村や佐助がここに現れたのは佐助の力によるものらしい、ということがにもわかった。
 詳しい方法はわからないが、先ほど佐助はが望まないならもう来ないと言っていたのを思い出す。裏を返せば、望めば来れるということだ。
 とは、まだ話したいことも、聞きたいことも、たくさんある。
 今後もきっとまた会える、そう思えばの頬は自然と緩んだ。
「・・・・・・ときに、殿。殿は天狐仮面殿とお知り合いであられるのか?」
 馬場へと顔を向けていた幸村が、何やら神妙な面持ちでそう言ったので、は顔を上げた。
「天狐?ああ、さ――」
 猿飛さん、と言いかけて、口を噤む。上をちらりと見上げれば、あは、と苦笑する佐助の顔。
 この幸村も天狐仮面の正体を知らないらしい。そう判断して、は口を開く。
「っと、はい、天狐仮面さんですね、知り合いといえば知り合い、でしょうか」
 まさか真田忍びの隊長ですなどと正直に答えるわけにもいかないので、曖昧にそう答えた。
「天狐仮面さんがどうかしましたか?」
 見下ろせば、確かに馬場には馬に跨る天狐仮面の姿があった。やはり、仮面のその姿は、少々異彩を放っている。
「いえ、先ほどからこちらを、・・・・・・というより殿を、ずっと見ているようでござったので」
「・・・・・・は?」
 はきょとりと眼を丸くしてもう一度天狐仮面、もとい佐助の方へ顔を向けたが、あちらの佐助は今はと何事か話しているようだった。
 ずっと見ていたという幸村の言葉に、は首を傾げる。
 何か用事でもあったのかもしれない、後で聞いてみよう。
   







     何やってんだか。
 少し目を凝らせばよく見えるその桜の木々の間に視線を向けたまま、佐助は天狐の面の下で半眼でそう思った。
 を連れて現れたあの忍びは、こちらに意識を向けるという方法で、わざわざその気配を報せてくれている。
 これ見よがしにの腰に腕を回して、薄笑いでこちらを見つめてくることに対して、腹が立たない、わけではなかった。
 なかったが、佐助は見抜いていた。
 あの忍びの、を抱きかかえた行動は、自分に対する当てつけだ。
 恐らくは、自分が顔色を変えるなり焦るなりする姿が見たいとか、そういう。
 ご要望にお応えしてここからあの忍びの眉間を狙うことはもちろん可能だ。蘇芳を基調にした流鏑馬衣装に身を包んでいるとはいえ随所にクナイは忍ばせているし、何より武器なら弓矢を携えている。殺傷を目的としない鏑矢(かぶらや)だが、まともに当たれば痛いでは済まされない。
 もちろんそうやってあの忍びを狙ってみたとして、「猿飛佐助」がのうのうと矢をその身に受けるとは思えないし、間違ってもに当てるつもりはないが、あの忍びがを落とすようなことがあれば一大事だ。
 そして、の身を危険に晒すことは、彼の忍びにとって何の利もない。
 つまり、あの忍びの行動はただの悪ふざけ。後からいくらでも灸を据えることは可能だろうし、今この場を乱すのは忍びの思う壺、ここは無視を決め込むのが肝要である。
 ――と、頭では理解しているつもりでも、なかなかそちらから意識を逸らせないのが「猿飛佐助」という忍びなのだと、実の佐助は今のところ、理解していない。
 ちょうど読唇ができない角度に顔を向けて話しているので(恐らくはあちらの佐助が意識してやっているのだろう)、会話の内容はわからない。しばらく眺めていたらの世の幸村まで現れて、どこの主人も突拍子もないことをするものだとどこか他人事のように感心した。
 馬場では流鏑馬が始まっていた。
 まずは一般参加の者たちから、順に馬を駆っていて、詰めかけた人々の歓声の中、騎手の「インヨーイ」という掛け声が響いている。
 一応は作法通りに動ける者たちが集まっているようだが、これまでのところ馬上で弓を構えられても、的を捉えられた者はいない。
「・・・・・・で、アンタは一体、どうしたっていうのさ」
 そう言って視線を流した先、馬上のが、顔をこちらに向けた。
 がこの場に現れたとき、観衆の誰かが彼女を見て「春の使いだ」と言ったのを、佐助の耳は拾っていた。
 成る程穿った表現だと、佐助も認めてはいる。
 武田の色、紅の房飾りで彩られた栗毛の馬たちの中で、の姿は確かに眼を引いた。
 白茶の斑が躍る淡栗毛の「ぶち子」はそれだけでも目立つが、その轡(くつわ)や鞍に着けられた房飾りは見事な桜色。薄紅の色が、淡栗毛の毛並みに映えている。あれは、が手ずから染色を手配した、「ちび」の為の飾りだ。「ちび」が成長したときのために成馬用の大きなものも用意したのだとが言っていたのを佐助は覚えていたので、不思議に思ってそれとなく宗秀に尋ねると、「ぶち子」にはこの房飾りを使うようにとの本人からの言伝だったのだという。
 「ぶち子」の毛色と桜色の房飾りは、馬上のの鶯色の着物ともよく合っていて、その仏頂面を浮かべる中性的な顔立ちと相まってどこか彼女を俗離れして見せている。まるで人間ではないかのような。神の使いが化け出たのだと言われても納得してしまうような。
 そう、はこの馬場に現れたときから鉄壁の仏頂面を保っているのだが、それがいつもの無表情とはどこか違うことに、佐助は気が付いている。
「・・・・・・どう、とは」
 注意深く見れば、ぶっきらぼうに答えるの顔色は、いつもより血の気が引いてわずかに青白い。
 それが彼女をいっそう「春の使い」に見せているのではあるが、本人の心中がそのような穏やかなものではないのだと、佐助は察していた。
 原因には心当たりがある。
 先刻のの言い合いを、佐助も聞いていた。
ちゃんの言ったことなら、気にすることないよ。アンタには縁遠い話だろ?」
「っ、」
 ひくりと、が眉を動かした。その表情がいかにも年相応に見えて、佐助はおや、と思う。佐助がふたりの会話を聞いていたのは忍びの為せる技ではあるが、その程度のことはも察していると思っていた。あるいは、もし気配に気が付いていなかったのだとしても、それを指摘されて顔色を変えるなど、常時仏頂面が標準装備のらしからぬことだったのだ。
 つまりそれだけ、の言った言葉がその身に堪えたということなのだろう。
 は言葉を詰まらせて、そのまま佐助から視線を外した。
 その仕草が存外子供っぽくて、仮面の下で佐助は眉を下げて息を吐いた。
 ・・・・・・ちゃんも、酷なことを言ったねェ。
 今回ばかりは、少しばかりではあるけれど、佐助はに同情している。
 ――『そんなのおかしいよ、どうしてちゃんにとっての一番の優先が私なの?まずは自分の身の確保からでしょう?』
 どうしてなんて問われたって、答えようがない。守らなければならないから、傷つけてはいけないから。敢えて言うならその理由は、「が大切だから」。だがそう言っても、きっとは納得しない。は、納得のいく理由もなく自分がただ守られることを良しとしない。身分とか立場とか、そういうものはの「納得のいく理由」にはなりえない。佐助はそれをわかっているから、のように正面を切ってあんなことを言ったりしない。
 言わないだけで、佐助には、の考えていることがよくわかっていた。
 もう一度、息を吐く。
 とはいえ、はこの流鏑馬が終わればここから去るのだ。
 はこの世の人間ではない、「異常」な存在だ。
 そのが悲しもうが苦しもうが、佐助としては正直なところどうでもいい。
 ・・・・・・と、割り切れたら楽なんだけどね。
 自嘲気味に考える。
 そう、これが個人の、ひとりの問題であるならば、それこそ佐助にとってはどうでもいい。悩むなりなんなり勝手にしてくれと思う。
 が、そういうわけにはいかない。
 の物言いに、が驚き、沈んだ様子だったのを、佐助は把握している。
 このままの状態でが元の世に返ってしまえば、は絶対に、気に病むだろう。
 ・・・・・・なんて、面倒なんだろう。
 天でも仰ぎたいような心持で、佐助は考えた。
 猿飛佐助は戦忍で、その身は全て主人のためのものであり、息をすることすら任務遂行のための手段、そのはずだったのに。
 それでも、願ってしまうのだ。
 の、笑顔を。
 にはいつだって笑っていてほしい。
 その笑顔を曇らせるような要因は、絶やしてしまわなければならない。
 佐助は手綱を引いてが跨る「ぶち子」の隣に馬を着ける。
 そして、相変わらず佐助とは視線を合わせないの背をばしりと叩いた。
 驚いたが顔を上げて佐助を睨む。
 仮面の下、のその顔を見下ろして佐助は苦笑した。
 何を考えているかわからない仏頂面より、今の方がよほど人間らしくて微笑ましい。
 普段からこうであれば、可愛げの一つもあるのに、と思いながら佐助は口を開く。
「しゃんとしな。アンタのとこの旦那と、ちゃんが見てるよ」
 その言葉に眼を丸くして、は佐助が指さす方向に視線を動かす。
 視界を埋めるような満開の桜の木々、その間に目当ての姿を認めて、は肩を震わせた。
「どっちにも、情けないところなんか見せられないんだろ?」
 その、佐助の口調は、これまでを相手にしてきたなかで、最も穏やかだった。
 が桜から佐助へ、視線を移す。天狐の仮面越しに、佐助はその双眸を見下ろす。
「ほら、そろそろアンタの番だ。だいたい『天狐仮面』をこの場に引っ張り出したのはアンタなんだ、口だけじゃないところを見せてくれよ」
「・・・・・・、」
 ゆっくりと瞬きをしたの眼に、わずかに光が灯ったのがわかった。
「・・・・・・ありがとう、猿飛殿」
 平時に比べれば幾分ぎこちなくはあったが、馬上で作法通りの礼をして、は馬を進めていく。
 その背を見送りながら、佐助は嘆息する。
 馬は、乗り手の感情に敏感だ。
 乗り手の不安や動揺はそのまま馬に伝播する。
 集中を欠けば弓を引くどころか、馬を駆ることすら難しくなってしまう、そのことはもよくわかっているはずだ。
「・・・・・・あとは、アンタ次第だ」
 表面上の動揺は拭えたようだが、の悩み事が解決したわけではない。
 恐らく、今のでは的は射抜けないだろう。
 だが、佐助が助け船を出せるのもここまで。
 あとは、彼女が自分で、考えること。
「・・・・・・、俺様も甘いよなァ・・・・・・」
 呟いて、佐助はがりと頭を掻いた。




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