第十五話




 駆け付けた幸村の「天狐」発言に驚いたものの、そういえばかつて武田道場で、の知る方の幸村も、「天狐仮面」の正体に気が付かなかったことを思い出した。
 そもそも、「別の世の同じ姿かたちの人間」が存在するなどということは、実際ここに飛ばされてきたにとっても容易に受け入れられるものではなかったのだ。それは、ここの世の幸村とて同じなのだろう。そう納得して、は一歩、歩み出た。
「幸村殿。こちらは、わたしが世話になっている、『真田幸村』殿と、その忍びの『猿飛佐助』だ」
殿が世話になっている・・・・・・?」
 きょとりと眼を丸くして、流鏑馬装束の幸村が、の傍らに立つ己と同じ姿の男と、その後ろのよく知った忍びの姿を見比べた。
 しばらくそうしていて、合点がいったと頷く。
「・・・・・・おお、そういえば。佐助がそのようなことを言っておったな、殿はここではない別の世から来たのだと。それは本当であったのか」
「って、ええ!?旦那信じてなかったの!?」
 を抱きかかえている佐助が、眉を跳ね上げてそう言うのを聞いて、幸村はそちらを振り返る。
「お前は俺を何だと思うておるのだ、流石の俺も別の世などという絵空事を聞いてそうそう簡単に納得するものか。何よりお前も信じておったわけではあるまい」
「う、・・・・・・まあ、そう、なんだけどさ」
 歯切れ悪く口ごもってから、佐助がため息を吐いた。
「ってことは旦那、信じてもない人間を自分の城に置いてたわけなのね・・・・・・」
 それはそれでどうなの、という呆れの色の濃い佐助の言葉に、はひくりと眉を動かした。それに気が付いたのは手を繋いでいるの世の幸村だけだったが、その幸村が見下ろすの顔は、流鏑馬装束の幸村の方へ向いたままだ。
 流鏑馬装束の幸村が、たちには背を向けたまま、言う。
「何を言うか、俺が信じておらなんだは殿の素性についてであって、殿そのひとではないぞ。殿は少々気難しいところはあろうが、心根はまっすぐとしたよい御仁だ、そのことはこの幸村、ようわかっておる」
「!」
 わずかに眼を見開いたの視線の先、佐助が眉根を寄せて、眉間に皺を刻むのが見えた。
「ったく、アンタってひとは・・・・・・」
 げっそりと嫌そうなその言葉は無視して、幸村がこちらに向き直る。
殿」
 声をかけられて、は我に返る。
「は、」
「そういうわけで、某今日まで殿の素性について疑いを持っており申した。お許しくだされ」
「え?」
 言われた内容がすぐに理解できなくて、はぱちりと眼を瞬いた。  それには構わず、幸村は神妙な面持ちを崩さずに続ける。 「それに、あの様子では佐助も何かと失礼なことを申し上げたでござろう、重ね重ね、お詫び申し上げる」
 そう言って、深く頭を下げた幸村を前に、は狼狽えた声を上げた。
「そッ、そのような、どうか頭を上げていただきたい、このようなことすぐに信じろという方が無理な話だ」
 慌てるの隣の幸村が、ふむ、とひとつ頷く。
の申す通り、頭をお上げくだされ、幸村殿。・・・・・・と、己の名を呼ぶのも、何やら面妖でござるな」
 その声に、流鏑馬装束の幸村が頭を上げる。その双眸を、まったく同じ色形の眼で、幸村は見つめた。
「貴殿のような方にを保護していただいたのは不幸中の幸いであったのでござろうな、某からも御礼申し上げる」
 そう言って頭を下げる幸村に、今度は流鏑馬装束の幸村が慌てた様子で言った。
「礼には及びませぬ、どうぞお顔を上げてくだされ!そもそも殿を助けたのは殿でござるから、」
「ああ、殿にも礼を申し上げねばならぬな。しかしこの上田でを受け入れてくださったのは他でもない貴殿であるから」
「そのように言われると何やら恐縮でござる」
 は頭を下げ合う二人の幸村を、まじまじと見つめる。
 同じ顔の人間が会話をしている様子というのは、本当に面妖だと思った。
 は、幸村の笑顔がすきだ。
 それが一度にふたりも拝めるなどという機会は、めったにあることではない。
 幸村たちに視線を固定しているの後ろ、佐助が頭を掻いてため息を吐いた。
「・・・・・・なんつうか、結局俺様ってどこ行っても苦労するってわけね」








 上田城の鎮護を司る八幡の社は満開の桜と五色の紙で作られた飾り、そして掲げられた紅の旗に彩られている。旗に刺繍されているのはもちろん真田の六文銭だ。
 檜舞台ではさきほどまで獅子舞の奉納が行われていた。それを見終えた見物客は、これから始まる流鏑馬のために、特設された馬場の方へと移動している。集まった人々には、今日起こっていた事件は知られていないようだった。がいないことに気が付いたのは宗秀くらいのもので、その宗秀には忍隊からうまく言ってある。盗まれた馬は全て回収済みで、無事も確認できた。
 せっかくの祭りの日である。無用な混乱が避けられたことに、馬場を見下ろせる杉の木の枝に立っている佐助はそっと息を吐いた。
「へぇ、ずいぶん賑やかなんだねぇこっちの祭りは。いーの?こんな人数集めちゃって、警備大変じゃない?」
 背後に感じていながらも無視していたその気配が口をきいたので、佐助は眼の動きだけでそちらを見て、もう一度息を吐く。
「別にアンタの知ったことじゃないでしょうよ」
「あらまつれないねぇ、せっかく同情してやってンのに」
「要らないよンなもん」
 佐助が投げた視線の先、同じように杉の枝にしゃがみこんだ、自分と同じ姿かたちをした忍びが、胡散臭い笑みを口元に張り付けている。佐助は呆れ顔で、その忍びへ言った。
「アンタこそこんなとこでのんびりしてる場合かよ?そっちの旦那についておいた方がいいんじゃない?そういうわけで人が多いからさァ」
 この忍びの言うとおり、上田の桜祭りはもともとこのように庶民に公開されたものではなかった。五穀豊穣を祈る神事であるがために、上田城主とその家臣たち、限られた武将のみでひっそりと行われていたものだったのだ。
 それを、このように人の集まる催事に仕立て上げたのは、城下町の活性化を図るためで、それは他ならぬの手腕であるところが大きい。
 この忍びの世、つまりの世にはもちろんの存在はないはずで、それならば同じ桜祭りがあってもこのように大規模なものではないのだろう。
 佐助の言葉に、忍びはへらりと笑った。
「アンタも俺様ならわかってるんだろ?旦那の気配はこっからでもちゃんと把握できる」
 この忍びと共にやってきた、の世の幸村の気配ならば、佐助も把握している。あの赤い具足姿はあまりに目立つことを向こうの佐助も認識していたらしく、今は当たり障りのない袴姿で笠まで被って見物客に紛れている。やはり自分のところとは様子の異なる祭りに興味津々であるようだ。
 視界に捉えられる民衆の人数は半端ではないが、それでもこの中から目当ての気配の位置を把握しておくことくらいは「猿飛佐助」にとって造作もないことだ。
「だからアンタだってあんなことがあったってのにあの子の傍を離れてるんだろ?」
 忍びの軽薄な声色に、佐助は彼から視線を外す。
 神社の境内には催しの準備のための陣幕がいくつも張られていて、はそのうちのひとつで休んでいる。休ませるなら城の方が静かでよかったのだろうが、今日に限っては手薄な城よりも幸村や忍隊の眼が届くこの神社の中のほうが安全だろうと判断されたのだ。使った薬は少量だったので、そろそろ目を覚ます頃合いだろう。
 そこまで考えながら、しかし佐助は口を開かなかった。
「・・・・・・」
 その様子を眺めている忍びが、肩をすくめる。
、っていうんだって?ねェ、あの子、何なの?」
「何って、何が」
 背後を見ずに言う。無意識に、声が低くなった。しかし忍びはそれを気にした様子はない。
「なんか、変じゃない?見たところバサラ持ちでもないフツーの人間ぽいけど、でもフツーの人間とは、決定的に、何かが違う」
 忍びからは見えない角度で、佐助は小さく眉を動かした。
 流石は「猿飛佐助」、の「天女」たる所以を本能的に嗅ぎ取ったというところか。
 はこの世の誰とも違う、佐助もそう思う。
 異世界から来たというならば、も同じ境遇ではあったが、しかし「ここ」とよく似た世で生まれ育ったは、少なくともこちらの幸村や他の人間たちと「同じ」であるように感じた。幸村やの間に違いがあるのは、の故郷によるものだと、佐助は考えている。長く続く太平の世であると聞いた。だからからは、戦いや血のにおいが、無い。
 とはいえ、もちろん佐助には、それをこの忍びに親切に教えてやるつもりなどない。
「さぁ?気になるんならそっちのお嬢さんにでも聞いたら?仲良くしてたみたいだから」
 嫌そうに口を歪めた佐助の、「そっちのお嬢さん」という言葉に潜む棘を見抜いて、忍びがにいと口角を上げる。
「あァ、厄介だったでしょ?うちのお嬢さんは」
 闇の滲む気配。佐助は予備動作のない動きで右腕を持ち上げる。
 瞬きのうちに、眼の前に上下さかさまの忍びの顔。その右手のクナイの切っ先が、佐助の右目の小指一本先でぴたりと止まる。佐助の右手のクナイの刃は、そのさかさまの首筋にひたりと添えられていた。
「――うっかり殺しそうになるくらいに」
 互いに少しでも腕に力を入れれば、相手を殺せる状態。佐助が立つよりも上の位置の枝に膝を引っ掛けて、さかさまにぶら下がっている忍びが、薄っぺらい笑みを顔に張り付けている。己の首に当てられている刃など見えていないように、世間話をするような気安さで、口を開いた。
ちゃんの左の首筋の、新しい傷痕。クナイの刃筋だった。あの子が並みの忍びに後れを取るとは思わないから、アレはアンタの仕業、だよね」
 至近距離で、ふたりの佐助の視線がぶつかり合う。
 温度の無い双眸、殺気を押し込めていることをわざと悟らせる気配、忍びの挙動はどこをとっても自分のそれと同じだ。
 まったく、嫌になる。
 クナイを持つ右手は寸分も動かさず、佐助は吐息交じりに言った。
「・・・・・・言っておくけど、先に煽ったのはそっちのお嬢さんだからね」
 同じくクナイを構えたまま、さかさまの忍びがにこりと笑う。
「ま、そうだろうね。安心しな、旦那には黙っとくし。ほんと、厄介なんだよねえあの子。うっかり殺したくなる気持ちはわかるよ?」
 そう言った忍びの顔から、笑みが抜け落ちる。すうと細めて、佐助を見据える双眸に、はっきりとした殺気がうかがえた。
「ただ、今あの子に死なれると色々と面倒だし、それに、――殺してもイイならそれは俺様の役目なの。アンタなんかにはやらないよ」
「要らないよンなもん」
 先ほどと同じ言葉を返しながら、佐助は目の前の忍びを見る。
 先刻、同じ顔のふたりの幸村のやり取りを眺めて、顔つきや立ち居振る舞いは瓜二つでも、性格に多少の差があるように感じた。それでも、ひととしての根の部分は同じであるのだろう。そう、佐助は思った。
 それを、己に重ねてみる。
 目の前の忍びは、ずいぶんと歪んだ性根の持ち主のようだ。その薄暗い思考が、理解できない、ことはない。己の心の底に巣食う闇に、佐助も心当たりはある。この忍びほど、思いきってはいないだけで。
「きれいすぎる人間は、何にしろ汚してみたくなるよね、ほらあのちゃんとか?」
 佐助は不快を現したその表情を一切変えずに、右手を振りぬいた。
 瞬間、忍びの姿が闇に滲み、背後に気配が移動する。
「わー怖い。そう、あの子はアンタのお気に入りってわけ」
 根の部分は同じ。自分の判断に、吐き気がした。背後の忍びには、嫌悪しか感じない。いっそこの場で殺そうかとすら思う。
 佐助の身から立ち上った殺気に、忍びも気が付いた。大げさに肩をすくめて苦笑する。
「・・・・・・殺ってもいいけど、勝手なことするとちゃんに怒られるんじゃないのー?俺様もね、ちゃんに怒られるのと泣かれるのだけはごめんだし?」
「・・・・・・泣かせたことがあるわけ?」
 背後を振り返りながら問うと、忍びはわざとらしく首を傾げて見せた。
「さァね」
「・・・・・・、もうなんでもいいからさ、さっさと帰ってくんない?」
 佐助は不快感を隠さずに言う。忍びが眉を下げて苦笑した。
「そうしたいのは山々なんだけどさぁ、ちゃんと、アンタの旦那が言ったんじゃない」
 そう、幸村同士が頭を下げ合ったやりとりがひと段落したところで、この忍びは早々に元の世に帰ろうとしたのだ。それを、「まだ殿に礼ができていないから」とが止め、さらに「せっかくだから流鏑馬も見て行ってくだされ」とこちらの幸村が誘って、この忍びもここに留まる事を了承したのだった。
「ていうか、どういう術式使ってンの、それ。世を渡るなんてこと、よく思いついたな」
 後半は称賛の言葉に似せた皮肉だ。完全なまでに現実主義者であることが求められる忍びが、よくも異世界なんて非現実的なことを考えたものだと。
 忍びもそれを感じ取って、口元を笑みの形に歪める。
「なぁに、羨ましいなら教えてあげよっか?」
「別にいーよ、無理やり口を割らせるのも面倒だしねぇ、そんな暇もないし」
 ぴくりと、忍びが眉を持ち上げるのが見えた。
 やはり、と思う。どうもこの忍びは、何やら言動が子どもじみている、気がする。こんな安い挑発に、乗るなんて。
「それにアンタ、教えろって言って素直に口を割るわけないもんな、見返りとか言って旦那もちゃんもやらないよ」
 忍びがわずかに眼を丸くしたのが見えた。
 まさかの図星か。似たような思考を持っているとはいえ、こうもあからさまだと佐助も驚く。
 そう、同じ姿かたちの「真田幸村」が存在するのなら、手元に置いておけば何かと役に立つ。影武者としては小助もよくやっているが、念には念を入れておきたいと思うし、その「真田幸村」がすぐ手に入るならそれに越したことはない。主人と同じ顔の人間を見て、そのことは自分も、少しは考えた。
 忍びが佐助の顔でにこりと笑って、
「ま、賢明なんじゃない」
 しゃがみ込んでいた枝をとんと蹴り、佐助の隣に降り立った。
「ねェ、『俺ら』が誰かを愛するなんて、誰かから愛してもらえるなんて、そんなことが叶うと、――本気で思ってンの?」
 平坦な声色、視線を動かせば、そこにある忍びの顔に表情は無い。
 成る程。
 佐助は理解した。
 確かにこの忍びは、「猿飛佐助」だ。
 その姿かたち、身のこなしや言動、思考回路に至るまで、この忍びは自分と「同じ」。
 だが、この先何を選び、どう生きるか、今後の「猿飛佐助」がどうなっていくのかは、すべて己の心の在りよう次第だ。
「それは、俺様が決めることさ」
 忍びの双眸を見つめながら、佐助は笑った。
 そう、その一点においては。
 自分と、この忍びとは、「違う」のだ。








 何か、夢を見たような、気がした。
 優しい手が、背を撫でてくれた、ような。
 あれは・・・・・・――
「・・・・・・殿、よかった、目を覚まされたか」
「あ、・・・・・・れ?、ちゃん?」
 何度か瞬きをして焦点を結んだの視界に、こちらを見下ろすの顔があった。
「どこか痛むところはないか?」
「え?えー、っと、大丈夫、かな」
 答えながら、は起き上がる。自分が横になっていたのは、幾重にも敷いた柔らかな布の上で、視線を巡らせると白い布の幕で覆われた場所だとわかった。人のざわめきが、ここにも聞こえてくる。ということは、ここは野外なのだろうか。
 ふと、今しがた動かした口の端が痛いような気がして、指を這わせる。
「あ、そこはまだ薬が乾いていないから、触らない方が」
「薬?」
「その、猿轡を、噛まされていたのだろう?それで、唇が切れていて。・・・・・・本当に、殿の花の顔(かんばせ)を何だと思っているのだ・・・・・・!痕でも残ったらどうしてくれよう、ああやはり手込めにした者を問いただして相応の罰を与えなければ・・・・・・ッ」
「ちょ、ちゃん、」
 あさっての方向を向いたの肩が、細かく震えているのを見て、落ち着いてとは手を伸ばした。
 というか、手込めって。私何もされてないよ?
「あの、落ち着いて、唇が切れてるだけならすぐ治るから。その、薬は、ちゃんが塗ってくれたの?ありがとう」
「いや、それはわたしではなくて」
 こちらに背を向けたままのが、わずかに俯いて口ごもった。
「その・・・・・・、猿飛殿が」
「ああ、猿飛さんが、・・・・・・、え?」
 納得して頷きかけて、は動きを止めた。
 ――猿飛さんが。私の唇に。薬を、塗った。
 その状況が妙な現実味を帯びてまざまざと脳裏に思い浮かんで、は叫びそうになるのを必死にこらえた。
「〜〜〜〜ッ、」
「そ、その、おなごの唇に触れるというのは如何かと、わたしも思ったのだが、よく効く忍びの薬だからと言って、」
 頬を朱に染めて口元を覆うの様子に、が慌ててこちらを向いて言い繕ったが、期せずしてその言葉の中に自分の想像が正しかったという裏付けが取れてしまった。は眼を閉じて、努めて大きく息を吐く。
 落ち着こう。
 何と言うことはない。
 佐助にとっては、単なる負傷者の手当て。それ以上でもそれ以下でも、ないはずだ。
 落ち着こう、もう一度そう思ってから瞼を持ち上げると、そこにの顔があった。
「・・・・・・ちゃん、」
 それに気が付いて、の肩に手を置いた。
殿?」
 膝をついて、首を傾げながらこちらを見つめるの右の頬が、赤く、腫れている。明らかに内出血しているのが見て取れて、このまま放っておけば痣になるだろうと想像に難くなかった。
「それ・・・・・・どうしたの・・・・・・?」
 わずかに、の声が震えた。
 打ち身や痣は、にとってもこの世に来て以来、よく見慣れたものだった。厩の仕事でだって、手足をぶつけることはある。擦り傷切り傷の類も、細かなものならたくさん負った。
 それでも、ひとの顔が、こんなに痛々しく腫れるのを、見慣れてはいない。
 しかも、それがよく知った者の顔だ。
 の声の震えに気が付いたが、するりと身を引いた。
「ああ、すまない、見苦しいところをお見せした。そうだ、目を覚まされたことを猿飛殿に伝えた方がいいな、」
 そう言って、立ち上がろうとするの手を、が引いた。
「待って、どうしたの、」
 記憶を掘り返す。
 馬の背から放り出されたところを佐助に助けられて、そのときに見た光景。
 恐らくはの世界の「真田幸村」と「猿飛佐助」、それを見つめるの姿。
 そう、あの場にはいたのだ。
 ということは、この怪我は。
「・・・・・・もしかしてあの馬泥棒の人たちに?」
 の言葉に、は答えなかった。それを無言の肯定と、は判断する。
 が眉を下げて、ぎこちなく笑った。
「大したことはない、ただぶつけただけだ、この程度の腫れなら放っておいても明日には引く」
 は、そのの笑顔に、違和感を感じる。
 そんな怪我をして、どうして笑っているのか。
 いくら怪我の治りが速い体質だからといって、痛くないはずはないだろう。
「貴方が、気にかけるようなことではない」
 その、の言葉で、は理解した。
 の、このどこかぎこちない笑みは、佐助やあやめ、他の忍びたちが浮かべるそれに、似ている。
 何か、危険なことがあったりしたときに、「天女さまが気にすることではない」と言う、彼らの顔に。
 ――ここから先は、の領分ではないと、線を引かれる時の、顔だ。
「・・・・・・どうして、」
 の声に、腰を浮かしかけていたが再び膝をついて、目線の高さを合わせる。
殿?」
「どうして私が気にかけちゃいけないの?私のせいで、怪我したんでしょう?」
 がわずかに眉を持ち上げた。
「そんな、貴方のせいだなどと!この打ち身に原因があるとすれば、それは全てわたしの未熟故だ、何より貴方の無事のためならこの程度のものは怪我にも数えん」
「そんなのおかしいよ!さっきちゃんは私の唇の心配をしてくれたよね、それと同じだよ!ちゃんの方こそ、痕が残ったら大変じゃない・・・・・・っ、それとも、私が無事だったらちゃんは無事じゃなくてもいいっていうことなの?」
 思わず大きくなったの声に、がびくりと肩を揺らした。
 それに気が付いて、は声の調子を落とす。
「っ、その、ごめんね、大きな声を出したりして」
「・・・・・・わたしは、何か貴方の気に障るようなことを、してしまったのだろうか」
 が眼を丸くして、を見つめた。
「貴方の言うとおり、わたしには貴方の無事が何よりも優先すべきことだ、貴方にはいつだって、心安らかに笑っていてほしくて、」
「だから、そんなのおかしいよ、どうしてちゃんにとっての一番の優先が私なの?まずは自分の身の確保からでしょう?」
「・・・・・・おかしい、のか?」
 そう言って、が首を傾げた。
「ならば、殿は何を望まれる?貴方はわたしを救ってくれた、手を差し伸べてくれて、優しくしてくれた。わたしは貴方に、何を返したらいいのだろう」
「そんな、何かが欲しくてちゃんを助けようとしたわけじゃないよ」
「そういう意味ではなくて、ただわたしが、恩に報いたいのだ、」
 話がかみ合わないと、は気づいた。
 は本気で、の言っていることが理解できないのだ。
 本気で、自身のことよりの方が大切だと、考えているのだ。
 自分とは、考え方の方向性が、まったく違うのだと、は思い至った。
 どうして。
 どうして、をこんなにも遠く、感じるのだろう。
 ・・・・・・友達になれると、思っていたのに。
「・・・・・・殿?」
 口を閉ざしたに、が気遣わしげな視線を送る。
 しかし、には何を言っていいかがわからない。
 所詮、生きてきた世界が、違うということなのだろうか。
 現代育ちの自分は、戦国育ちのとは、わかり合えないのだろうか。
 がうろうろと視線を泳がせ始めるのを見て、何か言わなければと、は考える。
 を困らせたかったわけではない。
 それでも、どうしても、が自身よりを優先したことを、見過ごせない。
 どうすればそれを、にわかってもらえるだろう、考えるの視線の先、陣幕を持ち上げて、ひとりの巫女が顔を覗かせた。
様、そろそろお時間ですので」
 その声で、ふたりは同時に我に返った。
 そうだ、流鏑馬だ。
「・・・・・・ああ、承知致した」
 が振りかえってその巫女にそう言い、その腕を掴んだままだったの手をそっと外して、立ち上がった。
「・・・・・・それでは、殿。行って参る」
 は一礼すると、の返事は待たずに踵を返し、先導する巫女の後を追って幕を出て行った。
 その後ろ姿を、は無言で見送った。




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