第一話




 ぽたり、と水滴が頬を打って、それを手の甲で拭いながら、は頭上を見上げた。
 葉の生い茂った大きな木の下であるのだが、全て防ぎきるには雨脚の方が強いらしい。
「・・・・・・止まぬなぁ」
 すぐ隣から降ってきた声に、視線を動かす。
「そうだな」
 前髪から水滴を滴らせていた幸村が、ぶるりと頭を振った。濡れた犬よろしく、水を弾くように。
 ぱたぱたと水滴が、――こちらの顔に当たる。
「・・・・・・そういうことをするなら、せめて離してからにしてくれないか」
「ぬ、おお、すまぬ!」
 謝罪の言葉を口にしながら、しかしこちらの肩に回っている腕が離れる様子はない。
 突然の雨に、この木の下に駆け込んだときから、「身体が冷えてはいけない」と抱き寄せられて、ぴたりと肩を寄せ合った状態でどれほど時間がたったのだろう。
 こんな雨になるなど、予想もしていなかった。
 朝は初秋の抜けるような晴天だったから、たまには息抜きをしたいという城主のわがままに、それを聞いた佐助は嫌な顔ひとつせず、握り飯と水筒の用意までしてくれた。近頃はこの上田の地の治政にある程度関わることを許されているは、農作物の安定した収穫の為にはやはり灌漑の整備が不可欠だなどと考えながら朝から地図や書物と睨みあいをしていたのだが、あれよと言う間に手を引かれて上田城の裏山まで来ていたのである。
 上田の里が一望できる場所に腰を落ち着けて、そろそろ小腹が減ったかと恐ろしく形の整った握り飯を取り出した矢先、空が暗くなったと思ったらあっという間にどしゃ降りになったのだ。
 はひとつ息を吐いて、懐から手拭いを引っ張り出す。先ほども拭いたのにまた濡れてしまった顔をもう一度拭く。
 それを見て、幸村が気づいた。
「それをまだ持っておったのか」
 が持つ手拭いには、「幸」という一字が刺繍されている。もともとは幸村の持ち物であったのを、出会った時に渡され、後に譲られたもの。思い出すと少し、懐かしいとすら感じる。実際に流れた年月はそれほどの長さではないのだろうが、それでも色々なことがあった。
 思い出して、は少し笑う。
「ああ、常に持ち歩いている。貴方からもらったものだから、縁起も良さそうだし。何しろ『さいわい』と記されているから」
 そう言って幸村を見上げると、幸村は穏やかに笑っている。
「その、『幸』の一字には、実は『手枷』という意味もあるのだ」
 肩を抱く腕に力が籠ったのを、は感じた。
「――そなたを、縛り付けるかもしれぬぞ」
 その瞬間、稲光が空を走ったらしい。びかりと光る視界の中、幸村の表情が良く見えなかった。
 はただ、瞬きひとつせず、幸村の顔を見上げる。
 一呼吸置いて、遠くより雷の落ちた音。
「・・・・・・何の脅しかはわからぬが、わたしは貴方の元から去るつもりはない」
 平坦な声でそう言うと、幸村がの頭に頬を摺り寄せた。はその顔に浮かべる仏頂面を動かさずに、こういうところは本当に犬のようだなとどこか他人事のように考える。
 このところの幸村は、何かとに構いたがる。何の前触れもなく手をつないだり、こうして肩を抱いたり、あるいは正面から抱きしめられたり(力の加減が上手くないのでこれは結構苦しい)、とにかく手を伸ばして触れられる範囲内にがいると何やら上機嫌だ。幸村の周りには佐助や他の忍びたちを含め、たくさんの人が集まるから、の周りはずいぶんと賑やかになった。幸村と出会う前は、ほとんど誰とも会話をせずに一日を終えることも珍しくはなかったというのに、賑やかなのも悪くないと思うくらいには、自分はこの暮らしを気に入っているのだろう。おかげでこのところ、就寝時を除いては、ひとりで過ごす時間がほぼなくなった。
 ――否、幸村と出会ってからというもの、本当の意味で一人になったことなどなかったのだと思い至る。
 自分の周りには、いついかなるときであっても、――
「佐助」
 幸村が頭上を見上げている。
「そこは濡れるだろう。降りて参れ」
「・・・・・・、いや、なんていうか割って入りにくい感じだったからさァ」
 呆れ混じりの声、そこに闇が滲んで佐助が姿を現す。
 そう、幸村の傍にいる限り、どんな時であっても彼らは近くにいるのだ。今のように気配を出してくれているときはこちらにもある程度察しがついているが、本気で気配を殺されたらおそらく追いきれないだろう。それが真田忍びである。
「何故だ?」
「何がだ?」
 佐助の声に、ふたりの怪訝そうな返事が重なった。
 真田忍びの長は「いやもうなんでもいいけど」と手甲に包まれた指先で眉間を押さえながらため息を吐いている。
 はしゃがんで、膝をついている佐助と目の高さを合わせる。
「ずいぶん濡れたな。気休めだが、」
 そう言って手拭いを差し出すと、全身濡れ鼠の忍びはへらりと笑った。
「いーの。大事な手拭いが汚れちゃうだろ?」
「汚れたら洗えばいいだろう」
 手拭いとは本来そういうものだとは言いつのったが、佐助はそれを手で制した。
「いいってば」
 そこで佐助が目を細める。
「――どうせまた濡れるし」
「!」
 遅れても気が付いた。
「幸村殿、」
「ああ」
 すでに木の幹に立てかけていた二槍を手にした幸村がは、雨に煙る視界の先を見据えている。
 は手拭いを懐に納めると、左手を、腰に差した刀の鯉口にかけながら立ち上がる。
「・・・・・・十五、――二十?」
 ずいぶんな数だ。気配を探っていたは眉をひそめる。
 その隣で、幸村がにいと口角を上げる。
「佐助の眼を掻い潜るとは、たいしたものだ」
 それを見てから、はいまだ膝をついたままの佐助に視線を動かす。
「・・・・・・」
 こちらの視線に気付いた佐助が、捉えどころのない笑みを浮かべて視線を投げ返してくる。
 この忍びが、これだけの数の侵入者を把握できないなど、ありえない。
 恐らくは、主人を餌に釣ったのだろう。手間をかけずに一網打尽にする目的で。相変わらず目的のためには手段を択ばない忍びである。
 しかし、と考えながら視線を幸村に戻す。戦いに臨む、嬉しそうな笑顔だ。
 もしかしたら幸村はそこまでわかったうえで、今日は上田城から出てきたのかもしれない。城内での戦闘を、避けるために。物事に対して、どこまでを理解し、予想しているのかがわからない、そういう底の知れなさがこの男にはある。
 依然として強い雨の中、じわりと滲むように人影が現れる。
 視線を走らせる、数は十八、まだ見えないところに潜む者がいるのだろう。黒一色の装束は、どうやら忍びだと見える。どこの者だろう、と考え始めて、その思考を中断する。戦の絶えぬ戦国の乱世だ。「甲斐の若き虎」を狙う者の心当たりなど、数えきれぬほど、ある。
「一応、名乗りをあげるべきか?」
「別にいいんじゃない、向こうも名乗る気なんかないでしょうよ」
 緊張感のない主人の問いに、同じくらい気の抜けた返事をしてから、佐助は大手裏剣を両手に構えて立ち上がる。
「ってわけだから。ちゃんはここにいてね」
「何を言う。――何のためにわたしがここにいると思っている」
 は佐助の方を見もせずに、抜刀の構えで重心を落とす。佐助はそれを見て、幸村に問うような視線を向ける。幸村は敵を見据えたまま口を開く。
「仕方なかろう、何を言うても聞きはすまい」
 構えた槍の穂先から炎が迸る。
 しばらく戦がなかったので、こちらも無駄に漲っているようだ。
 佐助は諦めたように息を吐いた。
「・・・・・・はいはい。わかりました。んじゃま、――殺りますか」






 そういえば殺してしまうのか生け捕りにするのか聞いていなかった。
 飛来したクナイを弾き返してから、はふとそのことに気が付いた。
 誰が、何の目的で放った忍びなのか、聞き出す必要があるのではなかろうか。
 そう思いながら視線を巡らすと、視界の端で爆炎が咲く。
 紅蓮の鬼は今日も調子が良いようだ。あれで手加減をしているとは思えない。ということは皆殺しなのだろうか。
 佐助に至っては、雨のせいで視界が悪くてその闇色がよく見えない。
 斬りかかってきた忍びの忍刀を、刃で受け止める。風を使って弾き返して、その反動で後ろへ跳ぶ。
 雨に濡れた木々の、濃い緑のにおいがする。濡れそぼった着物が肌に張り付いて気持ちが悪い。額に張り付く前髪から伝う雨が、顔を伝っていく。
 さらに躍りかかってくる忍びの、刀を握るその手を峰で打って、取り落とした刀を蹴り飛ばす。
 ――そもそも、忍びを相手にそんな戦い方をしたのが誤りであったのだ。
 雨の間を縫うように迫る手裏剣への対応が遅れた。
「ッ!」
 返す刀が間に合わず、咄嗟に付きだした左腕に二つの手裏剣が突き立つ。それを躊躇なく引き抜いて放りながら一歩後ろへ下がる。後ろが崖なのは知っていたが、は集中さえできれば風を使って飛ぶことができる。それより手裏剣の刃に毒が塗られていたら困る。今のところただ痛いだけで、即死するようなものではないようだが。例え毒が塗られていたとしても、この雨で流れてくれていることを祈りながら刀を構えて、
 ――感じた気配は二十。現れた数は十八。残り二人のことを、このときまで意識に入れていなかった。
 銃声。
 左肩に、灼熱。
 衝撃で、足が地から浮く。
「――!!」
 身体が、宙に放り出されたのがわかる。
 いけない、風を、――
「――ッ」
 一呼吸おいて、激痛が頭を突き抜けた。意識が、

 自分の名を呼ぶ声が、聞こえた。
 













 意識が、浮上した。
「・・・・・・ッ、痛」
 もはやどこが痛いのかよくわからない。全身が痛い。
 上体を支えようと無意識に地についた左腕が、
「――ッく、」
 明確な激痛に、眩暈がした。
 とりあえず腰を落ち着ける。背に当たるのは木の幹だろう、
「・・・・・・あ、れ」
 はそこで、雨が止んでいるのに気が付いた。
 視界に映るのは木々ばかりで、しかし見覚えはある場所だ。上田城の裏山だ。
 木々の間から差し込む光は明るく、そして手が触れている地面は少しも濡れていない。
 髪も着物も水を吸って重く、動かすのが億劫だというのに。
「幸村、殿、・・・・・・佐助、」
 ふたりの気配がない。風を使って確認しようとして、痛みに集中が途切れる。
 とりあえず左腕をどうにかした方がいいらしい。
 右手がまだ刀を握ったままだったので、鞘に納めてから、左の肩に触れる。
「ッ、」
 まだ出血している、触るたびに生まれる頭を焼くような痛みを歯を食いしばって耐える。やはり銃創、あの雨の中火縄銃を使うとは考えなかった自分の短慮を呪う。
 恐る恐る肩の後ろに手を回すと、そちらにも同じ傷痕があって、痛みに耐えながらも安堵の息を吐いた。貫通している。銃弾を身体に残すとやっかいなことになるから、貫通しなかった場合はこの場で抉り出さねばならないところだった。痛いからできればやりたくない。左の拳を握ったり開いたりしてみる。痛いが動かせるなら、とりあえず問題はなさそうだ。
 ならば、問題はどちらかというと。
 着物の袖を捲ると、こちらもまだ出血が止まっていない二つの傷痕。
「・・・・・・」
 痺れはない。肌の変色もなさそうだ。毒はなかったのだろうか。
 何かにつけて、利き腕ではない左手を盾にすることが多いので、右に比べると格段に傷痕が多い。そこにまた、傷痕を増やすことになりそうだ。
 歯をたてて、着物の右の袖を裂く。その布を、右手と口を使ってまず肩に巻く。何ににしろ止血しなければならない。どれくらいの間意識を失っていたのかはわからないが、その間にずいぶん血を失ったようだ。体中がだるい。
 続けて裂いた布を、腕の傷にも巻きつけて、一息。
 あの崖から落ちて助かったのだから、悪運だけは強いらしいと自嘲じみた笑みを浮かべて、は木の幹に体重を預けるようにしながら立ち上がった。
 ふたりを、探さなければ。
 足腰に負傷はなかったようで、歩くことは可能だった。少々ふらつくのは血が足りないせいだろう。
 踏み出した右足が、枯葉を踏んでさく、と音をたてる。
 ・・・・・・おかしい。
 あれだけの雨が降ったのだ。ここまで乾くまでには相当時間がかかるだろう。その間意識を失っていたらしい自分の身体は、全身濡れたままだ。なぜこちらは乾いていないのか。
「幸村殿、」
 ふたりの気配がないのは、何故だ。戦闘はもう終わったのだろうか。
「佐助・・・・・・?」
 視線を泳がせる。あの敵の忍びたちの気配もない。誰もいない。
 ふと、気が付く。目の前の木の、根元に咲く、小さな花。
 ぞわりと、背筋が粟立つのがわかった。
 は決して花に詳しくはないが、それでもこれはどこにでも生えている見慣れたものだから知っている。
 今の季節に、咲くものではない。
 ――ここは、どこだ。
 上田の森のはずだ。でも何かが違う。何かが決定的に違う。何が違うのかがわからない。見た目もにおいもの知るそのものなのに、何が。頼みの風が、痛みで使えない。
 何かがおかしい。何が。
「ッ!!」
 気配を感じて、そちらを振り返った。
 ここが上田の山であるならば、この方角は城のある方角だ。
 誰かが、近づいてくる。
 刀を抜く。左腕が動かせないので、抜刀が使えないからだ。
 知らない気配だ。最近になって、は漸く上田城に詰める面々の顔と名前を覚えた。その誰でもない。
 殺気はない。足取りは無遠慮と言えるほど忍んでいない。隠れる気がないということか。それほどまでに、自分の腕に自信を持った者と、いうことだろう。
 逃げるのが一番だとわかっていても、今は風が使えない。どこまで走れるかもわからない。
 気は進まないが、致し方ない。
 思い出せ。自分の戦い方は、常に先手を取る一撃必殺だったのだ。とにかく早く幸村を探さなければならない。そのためには。
 姿を見せたその瞬間に、殺――
「もー、猿飛さーん?どこ行ったんですかー!?」
 耳を疑った。
 女の声だ。
 今、何と。
 ざ、と風が吹く。
「猿飛さん、ってば・・・・・・え」
 木々の間から現れたのは、女だった。
 今、確かに。
 「猿飛」と、言った。
 踏み出そうとしていた右足が、固まる。
 こちらに気づいた女も、驚いたように眼を丸くして動きを止める。
 ・・・・・・きれいなひとだと、思った。
 身なりから判断するに相応の身分にある人物ようだ。見た限りでは、武器を持っていない。もちろん見えないところに持っている可能性はいくらでもある。
 刀を構える、鍔鳴の音に、女が我に返った。
「っだ、大丈夫!?ひどい怪我、」
「――寄るなッ」
 こちらに駆け寄ろうとしたその女へ、切っ先を突きつけた。声を上げたせいか、ぐらりと視界が揺れるのを、なんとか踏みとどまる。右足が地を擦る、ざり、という音。
 何だ。この女は。
 やはり殺気がない。何を考えているのかがわからない。
 や、が知る他の誰とも「違う」と直感的に悟る。何が違うのかがわからない。だが何かが、決定的に。
 せわしなく視線を動かす。木々の間に罠や、それに通じるような仕掛けはない、と思う。
 相手を見据える。わずかな体重の移動も見逃すな。差し出されたその腕に、何が隠れている。
 かたかたと、刀が音をたてる。
 右腕が、震えているのだと気が付いた。こんなときに。
「貴方は、『何』だ・・・・・・!」
 まさか物の怪の類だろうかと、混乱した頭が考た。その考えが、ひとつの仮説を生む。
 もしかしたら自分は死んだのかもしれない。
 ここは死後の世界で、眼の前のこのひとは、死者の魂を極楽か地獄へ誘う天の使いなのではないか。
 それなら納得がいく。このひとからは、どこか現実味がないような何かが感じられるのだ。
 天女が、口を開いた。
「ね、私はっていうんだけど。あなたは?」
 成る程、この問答で自分の行先が決まるということだろう。
 何をどう答えたところで、自分は明らかに地獄行きだとは思っている。それだけの生命を、奪ってきた。
「あなたの名前を、聞いてもいい?」
 というらしい天女が、笑ってそう言う。
 その笑みに、嘘は感じられないと判断して、は口を開いた。
「・・・・・・
「そっか、あなた女の子だよね?ちゃんて呼んでいい?」
「!」
 雨水と泥と血にまみれた、ぼろ雑巾のようなこの状態でよくわかったものだと考えてから、その程度のことは天女にはお見通しなのかと思い至る。
 は答えなかったが、それを肯定と判断したのか、天女が手を差し出した。
「怖がらないでいいよ、ちゃん。私は、あなたを攻撃しようなんて思ってないから。そしてできれば、・・・・・・その怪我の、手当をさせてくれないかな」
 死んだあとなのに手当をしてくれるとは、天女様はずいぶんと親切なようだ。
 ぎらぎらと、狂気すら孕んだ双眸で天女を見据えていたは、一度瞬きをする。その眼から、光が消える。
 ああ。
 すまない、幸村殿。
 貴方の元にいようと、決めていたのに。
 わたしは、どうやらここまでのようだ。
 右手から、刀が滑り落ちた。刃が地に刺さるさく、という音。
ちゃん!」
 身体から力が抜ける。
 なんだかとても寒い。
 目の前が暗い。何も聞こえない。
 
 ――抱きしめられた、と感じる。とてもあたたかかった。




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