かたり、と物音が聞こえたような気がした。 この生活を始めてからは、こういう物音ですぐ眼が覚めるようになった。もちろん風が戸を叩いた音だったり、屋根裏を野鼠(いたりするのだ、もうさすがに慣れた)が走ったりした音であることが多いのだが、十回に五、六回くらいは、彼が戻ってきた音だから。 眼が覚める、と言ってもいきなりすぐに起き上がれるわけではなく、また眼がぱっちり開くわけでもない。 ただ、腕を伸ばす。ちょうど彼の分を空けて寝ている褥の中で。 そうすれば十回に五、六回くらいは、 「――ごめん、起こしちゃった?」 そう言って、伸ばした手を握ってくれる、寝ている自分にはひやりと感じる少し体温の低い掌。 何か言いたいのに、完全に覚醒しきれていない口からは、意味をなさない「う」とか「あ」とかいう声しか出ない。 その様子に、彼が吐息だけで笑ったようだった。 ふわりと、抱きしめられる。 「仕事」帰りの彼には基本的に、においという物が存在しない。息を吸い込んでも、まるでそこには誰もいないかのように。 それでも、耳を押し当てた胸元からは、とくり、とくりと生きている証の音が聞こえる。 「ただいま、ちゃん」 おかえりなさい。そう言ったつもりだったが、上手く言えたのかがよくわからない。 よかった。今日もちゃんと無事で帰ってきた。 背中に回っていた手が、ゆっくりと撫でるように動いている。均等なリズムで、あやされているように。 眠るのがもったいない。もっと彼を感じていたい。そう思うのに、彼の手の動きはまるで魔法で、の意識は確実に深く沈んで行く。 ああだめだ、最後に残った意識で考えた。 そう、彼が無事ならそれ以上望むものは何もないのだ。 それなのに。 もっと触れてほしい。背中だけじゃなくて、もっと―― そう思うのは、やはり欲深いことなのだろうか――
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佐助の大鴉に世話になるのは初めてではないが、曖昧な輪郭を持つ大きな翼が闇を滲ませながら音もなく羽ばたく様というのはいつ見ても不思議だ。 ぼんやりとその様子を見上げていると、をまるで荷物か何かのように小脇に抱えている佐助が気づいてこちらに視線を落とした。 「なぁに」 「いや、なんでもない」 答えて、は落とさないようにとその両手に抱えている包みを抱えなおす。 「それにしても、祝言か」 が上機嫌そうに口の端を上げたのを見て、佐助は吐息する。 「なんでアンタが嬉しそうなの」 「それは嬉しいさ、殿が幸せならそれ以上のことはないし、それに」 そこで言葉を切って、は佐助の顔を見上げる。 「貴方はそうやって、ひとを愛することができる人間なのだとわかったことが、嬉しい」 その言葉に、佐助は呆れたような息を吐く。 「何勘違いしてンだか知らないけど、俺様と『あいつ』は別物よ?」 「だが根は同じだろう。いつか貴方にもそういう相手ができるのかもしれないと思えば、わたしは嬉しい」 勝手に言ってろとばかりにもう一度息を吐いて、佐助は眼下に広がる上田城を見下ろす。 どこまでも知り尽くしている主の居城、その隅に、佐助の知らない小屋が建っている。 話には聞いていたけれど、実際目の当たりにしても信じられないという気持ちの方が大きかった。 自分が、ひとりの女性を愛し、家庭を持つ、など。 この時代の家事というものはとかく大変だ。 この世に来てからが身に着けたことといえば馬の世話と巫女修行で、炊事洗濯は上田に戻って来てから、主に女中たちから学んでいる。 城内に暮らす限りそういう心配はいらないと幸村は言ってくれたのだが、結婚するとなればそういうわけにはいかないと、が自分で断ったのだ。そのことに後悔はしていない。自分たちのことは、できる限り自分たちでやっていきたい。それが家庭を築くということだとは思っている。上田城内に部屋をもらうのではなく、こうして敷地内とはいえ独立した小屋を建てたのもそういう理由だ。厩舎の仲間たちも組み立てに手伝ってくれたこの新居を、はすこぶる気に入っている。 「・・・・・・け、ど、洗濯機がないっていうのは本当に・・・・・・!」 たらいの中から引き揚げた洗濯物をあらん限りの力を使って絞りながら、無意識に声が漏れた。 そろそろ風の涼しい季節になってきた。きちんと絞っておかなければ陽が暮れるまでに乾かないのだ。木の間に張った縄に洗濯物を干し終えて、は大きく伸びをした。こちらに来てから何かと身体を鍛える機会が多かったので、炊事洗濯で疲れるということはなかったが、それでも長時間同じ姿勢をしていれば肩は凝る。 肩を回しながら一息ついていると、背後から声がかかった。 「殿!」 聞き覚えのあるような気がする声に振り向いて、は眼を丸くした。 「え、ちゃん!?」 こちらに歩いてくるのはとそう変わらない背格好の袴姿。事情を知らない者が見ればどこかの武家のご令息というところだが、実は女性であることをは知っている。 「久しいな、お変わりはないか」 「うんもうすごく元気、というか、うわぁ、ちゃんだー・・・・・・」 相変わらず、こちらが気恥ずかしくなるほどまっすぐと相手を見る子だと思いながら、は呆けたように言う。 不思議な縁が重なって出会った、「ここ」とよく似た、しかし「ここではない」世界の住人だ。 そして、がここにいるということは、 「・・・・・・お久しぶりです、『猿飛さん』」 の後ろ、なんとなく所在無げに立っている「猿飛佐助」には会釈する。 姿形はのよく知る佐助そのもの、しかし微妙な顔つきの差でにも見分けることができる。何しろは合わせて三人の「猿飛佐助」を知っている。同じ人間であっても、わずかな環境の差がその性格にも違いをもたらすらしい。もちろん、「忍びは道具」を地で行く佐助のことだ、性格の差などまず表には出さないのだが、それでも見分けられるくらいには、も佐助を「知って」いる。 声をかけられた「佐助」は「どーも」とそっけなく言って視線を外しただけだった。 警戒しかしていないその様子は、が出会ったころの佐助とよく似ている。周りを全て敵と仮定しているような、世界と自分の間に壁を張っているような。まるで過去の佐助を見ているようで微笑ましいとすら思えてしまうのは、惚れた弱みというものだろうか。 「それで、どうしたの?真田さんなら本丸の方にいるはず、」 「今日は貴方に用向きがあって参ったのだ、殿」 そう言って、が差し出してきたのは両手で抱えるほどの大きさの布包みだった。 「おめでとう。これはわたし達からの祝いの品だ」 「・・・・・・え・・・・・・?」 思わず受け取って、は一度瞬きをする。 「本当はわたしも祝言の席に立ち会いたかったのだ、それを佐助が、人が集まるときは危ないなどと要らぬ理由をつけてな。晴れの日の殿は、さぞお美しかったのだろうな」 「いや、つうかこっちの人たちにどう説明する気だったのさ、ややこしいでしょアンタがいたら」 仏頂面でぶつくさと呟くに、後ろから佐助が呆れたように言う。 その会話を聞いて、漸くはそれに思い至った。 「つまりこれ、は、・・・・・・私たちの結婚の、お祝い?」 「そうだが?」 当然のようにがそう言う。 思考がついてくるまでに一呼吸、は破顔した。 「嬉しい・・・・・・!ありがとう、開けてもいい?」 「ああ」 が頷いたので、包みの結び目を解く。現れたのは鮮やかな紅色の、 「これ、もしかして、赤ちゃんの――」 現代でいうところの「祝い着」、確かお宮参りで赤ちゃんに着せるものだったかと思い出す。この時代にお宮参りというものが存在するのかはわからない。もしかしたら普段から使う「おくるみ」扱いのものなのかもしれない。 「ああ、元気なやや子が授かるようにと。色が紅なのは幸村殿の趣味だ。六文銭まで入れようとしたからさすがに止めた」 生まれるのは佐助の子なのだから、とが苦笑しながら言う。 「まったく、幸村殿の舞い上がりようと来たら、今日は向こうで政務があるゆえ無理やり置いてきたが、ややが生まれた暁には必ず参ると申している。生まれたやや子がこちらの幸村殿と奪い合いになるのではないかと、今からいささか心配だ。――殿?」 年下の女の子が「やや子」と連発するのがなぜだか気恥ずかしいが、結婚が即妊娠・出産に繋がるのはこの時代では当然のことだ。もそれは理解している。 ――やや。赤ちゃん。 「・・・・・・、殿?」 気が付くと、に顔を覗きこまれていた。ぴたりと眼が合って、は漸く我に返る。 「っ、その、本当に、ありがとう!すごく、嬉しい」 の表情を見て、が一度瞬きをした。 「――佐助」 「ん?」 「こちらの猿飛殿を捕まえておいてくれ。わたしは後から追う」 「はいよ」 「ほ、ちゃん!?」 いったい何を。 の声は無視して、が佐助を振り返る。 「くれぐれも、こちらの方々に粗相のないようにな」 「わかってるって」 捉えどころのない笑顔を張り付けた佐助が、そう言って姿を消す。 「あの、ちゃん?」 「何か、あったのか」 再びこちらに向き直ったが、まっすぐとを見つめる。 「何か、って、何が?」 こころの内を見透かされるような視線だ。を笑顔を作って、もらったばかりの祝い着をだきしめる。 「何もないよ?こうやってちゃんたちにも祝ってもらえて、本当に私は幸せ者だね」 見知らぬ世界に飛ばされた時はただただ驚かされたし、ここは自分の知る「当たり前」が通用しない世界なのだと何度も思い知らされて、へこたれそうになった時もあった。 それでもここで、愛する人と、生きていくことを許された。これ以上、望むことなんて、何も、 「・・・・・・それなら、何故、泣きそうな顔をされているのだ」 そうっと、の掌がの頬に触れる。 「――ッ、」 そうだった。幸村とよく似たこの少女は、鈍そうに見えて人の感情の機微に敏感だ。作った表情など、すぐに看破されてしまう。 吐息が、震えそうだった。 これはごまかせない。そう思って、は口を開いた。 こんなこと、誰にも話せる気がしなかった。それでもならと思ったのは、おそらくこの少女が異世界の住人だからだろう。 「・・・・・・実は、――」 上田城の裏の森に、剣劇の音が響いている。 何度目かの交差、囮の右の手裏剣を紙一重で避けて、先に投げておいた、弧を描いて戻ってきた本命の手裏剣の刃をクナイ一本で弾いて見せた相手に、木の枝に着地した佐助はへえ、と柄にもなく感心していた。 相手は、己とまったく同じ姿かたちをもつ、「猿飛佐助」という忍び。城内の蔵でいくつも書簡を抱えていた彼は、忍び装束ではなくたすき掛けをした簡易な長着姿で、それは佐助の平時のときの格好と同じだったから、その状態での手持ちの武器にもだいたいの想像がついた。の指示は「捕まえておけ」だったから、幾分手加減をしたのもあるが、気づいた忍びは佐助の仕掛けを電光石火の動きで突破した。そのまま戦闘に突入し、裏の森に雪崩れ込んで今に至る。 「どうした、もう終いか?」 ぎりぎり間合いの外に着地した忍びが、こちらに向かってにいと口角を上げて見せる。 自分の顔だが、なんだか本当に癪に障る。 「・・・・・・ていうかさ、吃驚してンの。女にうつつを抜かしてるっていうから、どれほど落ちぶれたのかと思ったンだけど」 両手の大手裏剣が高速で回転して音をたてている。 手裏剣だけではない、こちらは戦装束だ。手の数なら圧倒的に勝っている。それは同じ「佐助」である相手もわかっているはず。 だが、クナイ一本を手遊びにくるくると回している忍びからは、焦燥が一切感じられない。いや、同じ自分なのだから、戦闘中に焦られても興醒めだが。 「それは褒めてくれてンのかな、光栄なことで」 茶化すような、その声色が気に入らない。 何故だ。 忍びは草だ。道具だ。道具に感情は無い。 道具はひとを愛さない。 ――道具はひとから、愛されない。 「・・・・・・なのに、アンタは、なんで」 理解ができない。道具であることを辞めたのなら、なぜ今ものうのうと生きているのだ。 猿飛佐助という忍びは。 誰かを愛し、愛されるなど、そんなことは、 「アンタはまだ、『知らない』だけさ」 こちらを見透かすようにそう言って、忍びが笑う。 「・・・・・・気に入らないねェ」 ぴたりと、回転していた手裏剣が止まる。 「ちゃんは『捕まえろ』っつってたけど、別に『殺すな』とは言われてないし」 「いや、ていうかなんで捕まえられなきゃなんないの」 忍びの間延びしたような声は無視して、佐助は跳ぶ。木々の間を縫うように。忍びは逃げない。 鋼のぶつかり合う甲高い音。 左の手裏剣は、忍びの今唯一の武器であるクナイに阻まれ、右の手裏剣はそれを持つ腕を掴まれて止められた。その右の大手裏剣の刃は、忍びの首筋の薄皮一枚だけを裂いて、止まっている。つ、と一筋、血が流れる。 ぎりぎりと、力比べの攻防が続く。右腕があとわずかでも動けば、確実に首を飛ばすことができる。だが忍びの腕はびくとも動かない。流石は俺だと、他人事のように思う。 ――だから許せない。 俺ならば俺らしく、闇に生きればいいものを。 光の下で生きる資格など、 「ねェ、殺すよ?」 「――やってみな?」 その忍びの顔が気に入らない。 そんな笑顔を、お前が――俺が、手に入れる資格など、ありはしないのだ! 佐助の足元で、ざわりと闇が蠢く。忍びは視線を逸らさない。 「俺様に何かあったらちゃんが泣くからさ、あぁでもアンタを殺してもちゃんは悲しみそうだ、ああ面倒」 「ッ、黙れ!」 佐助の闇が爆ぜる、その隙に忍びは手裏剣を防いでいたクナイを流水の動きで繰り、刃をいなした勢いのまま正確に首筋を狙って、 「――待て!」 轟、という風の音、その突風を避けるように佐助は跳ぶ、眼前にが躍り出た。容赦ない抜刀の一撃を、佐助は両の手裏剣で受け止める。 「貴方は、何をしているんだ!」 「やだなぁちゃん落ち着いてよ、軽い冗談だって」 ぎらと光る双眸で、笑顔を張り付けた佐助の眼を見据えて、は静かな声で言う。 「――貴方こそ、落ち着け。彼は貴方ではないのだと、先ほど自分で言っていただろう」 「ッ、」 佐助の顔から取り繕った笑顔が抜けるのを見てから、は刀を鞘に納めた。佐助の両手には手裏剣が握られたままだが、意に介さずに歩み寄る。 「確かにわたしは先ほど、彼は貴方と根が同じだと言った。だから、貴方にもそういう相手ができればと。だが彼と同じである必要はないんだ。貴方は貴方の生き方を、選べばいい」 これは受け売りだがな、と言っては小さく笑う。 その表情を呆けたように見つめてから、佐助は視線を逸らして手裏剣を納めた。 驚いた。 突風を避けるために後ろに跳んでいた佐助は、一部始終を眺めてそう思う。 風に乗って現れた少女は知っている。何よりあの忍びが名を口にしていたから、来ているのだろうと思っていたが、まさか「猿飛佐助」を諌められるようになっているとは。 前回会ったときは、もっととっつきにくい、妙な子どもだと思ったのだったが、あちらで何があったのか、相応に成長しているらしい。浮かべる表情の数も、格段に多いようだ。 ああいう子がいるのなら、あっちの俺も大丈夫なのかも、そう思っていたら、刀を納めたがくるりとこちらを向いた。 「すまなかった、無礼を許してほしい。その、――傷は、大事ないか?」 前回からは想像もできない、眉根を寄せた気遣わしげな表情だ。佐助はにこりと笑う。 「ん、ヘーキヘーキ。ダイジョーブ、あっちの俺様じゃぁ何百年たったって今の俺様には敵わないから」 背後で収まりかけた殺気が再燃する気配、は眉を下げて苦笑する。 「・・・・・・そういう言い方はやめてくれないか、これ以上だとわたしの腕では止められないのだ」 「あは、ごめんごめん」 殺していいならいくらでも止めようがあるんだけど、とこっそり思ってから、佐助は話題を変えた。 「それで?俺様を捕まえてどうしたかったの。ちゃんなら城の方にいたでしょ?」 「ああ、さきほどお会いした。それで、貴方と話がしたいと思って、」 そこでの纏う空気が変わった。 すう、と眼が細められる。 え、何。俺様何かした? 殺気すら滲ませながら、が口を開く。 「――貴方は、女性の身体に、関心がないのか?」 「・・・・・・は・・・・・・?」 何を言われたのか理解するのに、一呼吸ほどの間を要した。 「は、え?」 「だから。女性の身体に、興奮することはないのかと聞いている。まさか男にしか興奮できないという部類の人間なのか?」 「はッ!?」 「・・・・・・ちゃん、言葉を選んでって俺様いっつも言ってるよね・・・・・・?」 すっかり毒気を抜かれた様子の向こうの「佐助」が、げんなりと息を吐いている。 それは良いとして、何言ってるのこの子。 「佐助」の声はきれいに無視して、はまっすぐとこちらを見据えてくる。 「どうなのだ、答えろ」 答えなければ斬ると言わんばかりに、が左手を刀の鯉口にかけている。この少女の力量は知っている、この年頃の女にしては「出来る」方だが、先ほど自分でも行っていた通り「猿飛佐助」に敵うほどのものではない。だがどう見ても、は本気だ。意味不明すぎてどこから突っ込んでいいのかもわからない。 「・・・・・・ええと。とりあえず質問の答えだけど、俺様フツーに健全な男子よ?そりゃあ仕事柄、男だって相手にできなくはないけど、そんなの女の方がいいに決まってるじゃない」 「ならば、何故だ。殿はとても魅力的な女性だ、心根も優しくて、何事にも一生懸命で、顔立ちだって冬の終わりの桃のようにあたたかくて華やかで、身体は、少しやせ過ぎかもしれないが凛としていて美しい、そうだろう!」 「・・・・・・」 なんで俺のお嫁さんの自慢をアンタがするの。 少しばかり疲れた表情で、佐助は「そうだね」と返事をする。そもそもの魅力など、唐突に現れた異世界の住人にわざわざ教えてもらうまでもない。 この子何が言いたいんだろう、なんだか面倒だな、そう思い始めていた佐助だったが、さすがに次の言葉には度肝を抜かれずにはいられなかった。 「わかっているなら何故だ。何故貴方は、殿と交わろうとしない!これ以上何が不満だというのだ!」 向こうの「佐助」が顔を押さえてしゃがみ込んでいる。どうしようこの子助けて旦那、とかいう情けない声が聞こえる。 とりあえず佐助は言われたことを頭の中で咀嚼し、そして思い至った。 「ねェ、ちゃん。ちゃんはアンタに、何を言ったの・・・・・・?」 どうしよう、見つからない。 城中を一周してきて、は自分の家の前で立ち止まった。走り回ってきたので息が上がっている。現代にいたころより体力がついたとはいえ、さすがに城内一周は厳しかった。 それより、が見つからない。 の話を聞いて、「ここで待っていろ」と言い置いてものすごい勢いで走って行ってしまった。というか飛んで行ってしまった。 呆気にとられてそれを見送ってから、漸くはの性格を思い出したのだ。そしては、佐助を捕まえておくようにと向こうの「佐助」に言っていた。 「・・・・・・どうしよう・・・・・・」 ついでに、佐助たちの姿も見つからなかった。城から出てしまったのかもしれない。 どう考えても、は佐助の元に向かったはずだ。 迂闊としか言いようがなかった。 に話したのは、話をすることで自分の気を紛らわそうとしたようなものだ。所謂ガールズトークである。だって話題が話題だ。 ――佐助が、自分に手を出してくれない。 キスはしてくれる。でもそこから先は、絶対にしてこない。仕事で夜も家に帰らないことは多いが、仕事の時期によっては一緒に眠れることもある。その場合はひとつの布団で、佐助の腕の中で。 そこまでして、どうして「その気」にならないのか。 確かにはそれほど豊満な体つきをしていない。この時代に来てからはかなり痩せたし、そして痩せるときは胸も痩せるものだ。減ってしまったものを取り戻すのは難しいし、それにこの世界で生きていくために鍛えた身体であったので、痩せたことに後悔はしていない、それでも。 は佐助がすきで、――佐助も、をすきだと、そう思っている。 ならば、どうして。考えれば考えるほど、思考が悪い方向に連鎖する。 要するに、自信がなくなっているのだ。 真田忍びの長、百戦錬磨の戦忍、その名を天下に轟かす(忍びとしては轟かせたらだめなのだと本人は言っているが)猿飛佐助ほどの男に、愛してもらえるほどの価値が自分にあるのかと。 それを聞いたは、少し怒ったようだった。 「貴方は、勘違いをしている」 そこからつらつらと、よくそこまで思いつくなと感心するほど、の長所を並べ立て、一生分かというくらい褒められた。あまりに気恥ずかしくて途中で遮ったほどだ。 そして風を巻き上げて行ってしまって、今に至る。 どう考えても、は佐助の元に向かったはずで、そしておそらくは佐助に、 「・・・・・・ほんとどうしよう・・・・・・」 佐助が戻ってくるまでの間に、隠れる穴でも掘ろうかと、は本気で考え始めていた。 は基本的に、物事を「包み隠す」ということを知らない。 が言った言葉を、一字一句違えずに全て話して、そして「どういうことだ」と言って仁王立ちで腕を組んだ。 二人の佐助は脱力してそれぞれ掌で顔を覆っていたりあさっての方を向いていたりしている。アンタが一体どういうことだ。 「・・・・・・ええと、ね、ちゃん。そういうのはなんていうか、『二人の問題』だから。部外者が立ち入るようなものじゃないでしょ」 先に自失状態から回復したのはの世界の「佐助」の方だった。苦りきった表情で、の肩に手を置く。 はその「佐助」を見上げ、 「確かにわたしは部外者だ」 そしてこちらを見据えた。冷たい炎のような光を宿した双眸。 「だが、わたしが部外者であることは、殿を悲しませたままにしておいていい理由になりはしない」 ああわかった、と佐助は思った。 この眼は、本気で怒った時の幸村の眼に似ている。さきほど面倒だと思った理由もたぶんこれだ。はぐらかしも、誤魔化しも効かない眼だ。 それに。 の話の中には、佐助の予想だにしなかったことが含まれていた。 「・・・・・・ちゃんは、悲しんでるの?」 そんなそぶりを、自分には一切見せていない。せっかく建てた「家」を空けることは多かったから寂しがっているのかもしれないということは薄々感づいてはいたのだが、悲しんだり、悩んだりしているとは思いもよらなかった。 それも、自分がに触れない、そんな理由で。 佐助はひとつ、息を吐いた。 そして、自分の両手を見下ろす。 「この手は、さ。奪う、手だ」 は黙って、続きを促す。佐助の表情は、自嘲じみた口調とは違い、穏やかだ。 「数えきれないほどの、生命を奪ってきたし、ちゃん以外の女の身体だって、たくさん暴いてきた手だよ」 佐助は視線を上げる。見つめるのはの後ろに立ちすくむ忍びの眼。 お前は俺なんだからわかるだろう、と視線を投げれば、表情を消した忍びが温度のない視線を返してくる。 「そして、これからもそうやって生きていく。この手を、汚しつづけて」 「――ならなんで、嫁取りなんかしたのさ」 自分の肩に置かれた手に力が籠るのを感じて、は背後を見上げる。 「佐助?」 「俺らが生きる道は決して陽の差さない修羅道だ、生命なんか紙切れより軽い草の道だ、アンタは彼女をそこに引きずり込むのか」 感情を殺した忍びの、怜悧な声だ。 しかし佐助は、穏やかな表情を変えない。 「違うよ。ちゃんは、――は、」 がかすかに眼を見張る。「猿飛佐助」のこんな笑顔を、見たことがない。 「は、俺の救い、なんだ」 佐助は、もう一度己の掌を見下ろす。その両手を、拳に握る。 「がいることで、俺はひととして生きられる。どんなに手を汚したって、そしてそれが痛かろうが辛かろうが、それでもひとでいられるんだ」 は、自分の肩に置かれている佐助の手に触れる。佐助の手甲は爪の先が鉤のように鋭くなっていて、実はそれが先ほどから肩に食い込んでいるのだが、ただ幼子をあやすように、ゆっくりと撫でるようにその手を動かしながら、眼の前の佐助を見つめた。 「・・・・・・その、汚れた手では。殿には、触れられない、と?」 「・・・・・・そう、だね。俺はを、汚したくない。さっきそっちの俺様が言った通り、『俺らの場所』にあの子を巻き込む気はないんだ」 だって、あの子はそれこそ眼に見える奇跡だ。文字通りの天女様だ。 「・・・・・・、貴方の言うことは、わからなくもない」 の、静かな声。 佐助はこのの生い立ちを詳しく知っているわけではないが、とは違ってこの世で生まれ育ち、戦場に生きるは、どちらかというと「こちら」よりの人間だと認識していいる。 「だが、貴方はそれを殿に話したか?」 の言葉の意図がわからず、佐助は口を噤む。 「貴方が自分のことをどう思おうと、それは貴方の勝手だ。だがそれに対して殿がどう思うかは、殿にしかわからないことで、貴方が判断することではない」 「――・・・・・・」 何か言おうとして口を開きかけて、しかし言葉が見つからなかった。 「いかに夫婦といえど、口にしなければ伝わらないこともあるのではないか」 参ったな。 こんな子どもに、諭される日が来ようとは。 佐助は諦めたように眉を下げて、息を吐いた。 「ありがと、ちゃん。アンタいい女になったねぇ」 なんとなく子どもを褒めるくらいの気持ちで頭を撫でようとしたら、差し出した手を忍びの手甲に弾かれた。 纏っているのはどこまでも冷たい気配、忍びはまるで昔の「猿飛佐助」だ。 佐助は、その「佐助」へにこりと笑って見せる。 アンタも早く、知るといい。 愛を知った俺様は、誰が相手でも負ける気がしないぜ? 陽が傾きかけたころ、「家」に戻ってきた佐助は、その奇妙な光景に眼を丸くした。 「・・・・・・何してんのちゃん」 「さっ、猿飛さんっ」 どこから拝借してきたのか、鍬を持ったが、その腰くらいまでが埋まるほどの穴を掘っている。 穴の中で、悪戯が見つかった子どものようにびくりと飛び上がったは、鍬を両手で抱えるように持って、うろうろと視線を泳がす。 「あ、あれ、ちゃんは、」 「あー帰ったよ、時間切れだって」 「そうですか・・・・・・」 残念そうにが眉を下げる。 「また近いうちに来るって言ってた。ちゃんにもよろしくって」 言いながら、穴に近づく。直径はちょうどが両手を広げたくらい、よくもこんなに掘ったものだ。 「で、何してんの?」 聞くと、は見ていてかわいそうなほど狼狽えた。 「ぅえ、え、えっと、その、そう!畑を!やろうかな、なんて・・・・・・」 「・・・・・・牛蒡でも植えるの?」 そうでなければこの深さは不要だろう。 穴の淵にしゃがみ込んで、佐助ははー、と息を吐く。きっとまた、何かを変な方向に思いつめた結果なのだろう。原因の心当たりは、もちろんある。 「ちゃん、ちょっとおいで」 「は、え?ちょっ」 穴の中のの両脇に手を入れて、ひょいと持ち上げる。「猿飛さんっ!?」という慌てた声は無視してそのまま抱きかかえて足で家の戸を開けた。 土間で放るように履物を脱いで、居間に上がったところでの身体を抱え込むように腰を下ろす。その細い肩に鼻を押し付けて、ぎゅうと抱きしめる腕に力を籠める。少しばかりの汗と、太陽と、土のにおい。それから髪を洗う時に使っているあの不可思議な石鹸の、佐助の知らない花のにおい。人が死んだ後に行く天国とやらがあるとすれば、きっとこんなにおいなんだろうと思う。 「あの、猿飛、さん?」 腕の中でもぞりと動いて、が怪訝そうな声をあげる。 佐助はの肩に顎を置いて、口を開く。 「あのね、ちゃん。はじめに言っておくけど、俺様ちゃんに相当惚れ込んでるんだよ?」 ぎくり、との肩が強張るのがわかる。 「こないだも無意識に惚気て才蔵に呆れられたしさぁ、ちゃんじゃないけど、必要があれば三日三晩は余裕でちゃんのいいところ語れるよ?」 「〜〜〜〜〜ッ、」 ちらりと視線を動かせばの耳が赤い。ああ、本当に、なんてかわいいんだろう。 「・・・・・・ごめんね」 もぞもぞと動いていたが、ぴたりとその動きを止めた。 「ちゃんがそんなに悩んでたとは、気づいてなくて」 「ち、違うんです、」 が慌てたように言う。 「私が勝手にちょっと凹んでただけっていうか、なんていうか、ああもうちゃん・・・・・・ッ」 「そのちゃんに怒られちゃった」 あは、と苦笑しながら、佐助はの髪に指を滑らせる。 「ねぇ、ちゃん。俺さぁ、たぶんスッゴイよ。ちゃんひくかもよ」 遊ぶように、指にの髪を絡ませる。 「けっこうヒドイこともしちゃいそうだし、・・・・・・正直わかんないんだよね、仕事以外で女を抱いたことなんかないから、なんていうかこう、タガが外れたらどうなるか自分でもちょっと」 腕の中で、は動きを止めたままだ。 「この手だって、色んなことに染めた、汚れた手なんだ」 す、とわずかに身を離して、の顔を見る。これ以上ないほど、首筋まで真っ赤に染めたその表情。腹の奥底に押し込めていた欲が、蠢いたのがわかる。 「でもね、あなたに触れたい。ねぇ、――、」 潤みをおびた、その瞳を覗き込む。 「抱いても、いい・・・・・・?」 おそらく情欲にまみれているだろうこちらの眼をまっすぐと見て、は口を引き結び、 「!」 その唇が、自分の唇に押し付けられた。 「ッ、馬鹿じゃないですか!猿飛さんが忍びなのも、ここがそういう世界なのも、全部私は受け止める覚悟で、あなたと一緒になろうと決めたのに・・・・・・ッ」 口を離したが眉を釣り上げて佐助を睨む。 ああどうしよう。 どうしようもなく、愛おしい。 「ごめん、ありがとう、」 「猿飛さん、」 ゆっくりと、の背を片腕で支えながら、その身体を床に倒していく。 「ね、名前、呼んでよ」 「猿飛、さん?」 こて、と首を傾げるのがかわいすぎる。この子一体俺をどうしたいの。 「いやだから。名前」 笑い混じりに言ったら意味を理解したのか、は真っ赤な顔で唇を幾度か小さく動かし、 「・・・・・・佐助」 ああ。 こんなに、自分の名前が好きになれる日が来るなんて。 「ありがとう」 今ならその辺の木にだって礼を言えそうだ。 ・・・・・・いや、違う。 この感謝の気持ちを伝える相手は、この世でたったひとりだ。 「、・・・・・・あいしてる」 そうして佐助は、の唇に、己の唇を重ねた。 fin. |