胸 に 秘 め る は 甘 い 香 り
私という人間は、本当に馬鹿だとつくづく自分で自分が嫌になる。
「有名なパティシエになる!」なんて大見得を切って片田舎の地元を飛び出し、都会の、テレビなんかにもよく出ているケーキ屋で働き始めたところまではよかったんだと思う。でも、その店のパティシエ兼オーナーでもある人を、あろうことか、尊敬の念から恋愛感情へと発展させてしまい、今思えば、彼氏・彼女という関係になった時から、私の人生なんてものは転落の一途を辿り始めていたんだろう。もしかしたら、「このまま結婚ってことも……」なんて淡い期待を抱いていたのも束の間、そうやって幸せボケしていた私は、自分の後輩に彼氏を横取りされたことにも気付かず、彼から突然「別れよう」と言われて初めて、自分がどういう状況に置かれているのかを知るという、何とも間抜けな形で、その未熟な恋は幕を閉じた。
「私が悪いわけじゃなくて、次から次へと、店の女の子に手を出すあの人が悪いんだ」なんて、自分に言い聞かせてみたけれど、今さらそんなことをしても何だか虚しいだけで、あんなに舞い上がっていた自分が本当に馬鹿らしく、むしろ、過ちとも呼べる自分のこれまでの言動をリセットしたいくらいだ。こんなことで店を辞めるのも悔しい気がしたから、何日かはがんばって仕事に行ったけど、何もかもがやっぱり居心地悪くて、結局店は辞めた。「このまま、すごすごと地元に帰るのもなぁ。でも、次の仕事の目途も立たないしなぁ」と途方に暮れていたある日、携帯に見慣れない番号から着信があり、出ようかどうか迷った末にとりあえず出てみることにした。
「もしもし?」
「おぉ!か?俺だ」
「……もしかして、チカちゃん?どうしたの?ってか、何で番号知ってるの?」
久々に聞いたその声は、幼馴染みのチカちゃんこと長曾我部元親のものだった。子どもの頃はいつも一緒に遊んでいて、何でも器用にこなすチカちゃんのことを「すごいすごい!」と言って、尊敬すらしていたものだ。
「うちのお袋伝いに、お前のおばさんから聞いた。仕事辞めたって聞いてな」
「え?嘘!?やだ。何か変なこと言ってなかった?」
「仕事辞めてどうしようか迷ってる、としか聞いてねぇけど?」
それを聞いて、ほっとした。あの有名パティシエが彼氏だということで悦に入っていた私は、その当時、母親に彼と付き合っていることを自慢げに電話口で話したことがあったからだ。さすがに、その恋愛のもつれから仕事を辞めただなんて、そんなかっこ悪いことは言えずに、店を辞めた、とだけしか母には報告していない。
「お前、ケーキ作ってんだろ?昔っから、ケーキだとかクッキーだとかそういうの作るの好きだったもんなあ」
「う、うん。まぁ、辞めちゃったんだけどね」
「それだけどよ。その、物はひとつ相談なんだが、お前、俺の店で働かねぇか?」
「へ?」
話を聞いてみれば、いつの間にかチカちゃんも地元を離れて、こちらでドーナツ屋を経営しているとのことだった。そう言えば、どこかドーナツ屋らしくないあのお店を何度か利用したことはあったけど、それが、まさかチカちゃんの店だとは思いもしなかった。ケーキ屋とドーナツ屋という、似て非なる物ではあったけれど、ぜひ力を貸してほしいと幼馴染みに頼まれれば、特に断る理由もなく、と言うより、むしろこれからのことを考えあぐねていた私は、喜んでその話を受けた。
あれから3ヶ月。
「っしゃっせー!」という、相変わらず居酒屋のような威勢のいい声にもようやく慣れ、最初は、何だか怖いとすら思っていた従業員の人たちも、実は優しい人ばかりだということがわかった。私のメインの仕事となっている商品開発も、最初は責任重大で大丈夫かと心配だったけど、これが案外、奥が深くて面白い。ケーキだと、甘い物ばかりを考えるけど、チカちゃんのお店ではお惣菜系のパイも扱っているから、そういう商品を考えるのは新鮮で、楽しかった。自分で一からドーナツを作ることはなかったけど、チカちゃんの舌はかなり確かで、おいしいと言ってくれた物は必ず売れたし、どこを変えればもっとよくなるか、という指摘はいつも的確で、確実に前の職場よりやり応えを感じる仕事だった。
不満なんてない……と言えば、ない。
「おーい、野郎共!これ運ぶの手伝ってくれ!」
「アニキー!」
店の裏口に、何やら奇妙な機械を持って現れたチカちゃんの周りを、一見、ドーナツなんて似合わなさそうないかつい形をした男の人たちが取り囲んで、チカちゃんの持って来たそれをキッチンに運び入れる手伝いをしている。
私はと言えば、その光景を見て嫌な予感しか感じなかった。
「今度のもすごいッスね、アニキ!」
「だろぉ?こいつぁ、俺の自信作よ!これで、うちも安泰だぜ。はっは!おい、。これ、ちょっと借りるぞ?」
そう言うと、チカちゃんは、さっき私が揚げて冷ましておいたドーナツ数個と、ディップ用に溶かしてあるチョコレートを、深型のバットからお玉一杯分ほど取り出し、さっき持って来た機械の、それぞれの場所にセットしている。
「このチョコをだな、ここに入れて……で、ドーナツはここに置く、と」
「おぉ!さすがッス!」
「何がさすがなんだ」と、心の中では盛大に突っ込みを入れたものの、敢えて黙っておく。
ピッ、とチカちゃんがスタートボタンらしき物を押すと、ウィーンと機械が唸り、動き出した。「おぉ!」というヤロー共の歓声とは反対に、相変わらず私は冷めた目でその様子を見守る。どうやらそれは、ドーナツにチョコレートをコーティングする機械らしく、ベルトコンベアーに載せられたドーナツが、チョコレートのカーテンをくぐるという仕組みらしい。
しかし、そもそもうちのあの商品は、ドーナツ全体にチョコレートがかかっている物ではなく、円の三分の一ほどをディップする、という物なのだが、もはやそんな細かい部分には執着していないのだろうか。
そんなことを考えていると、突然「ガガガ」という変な音がし、機械が止まってしまった。
「おい!あれ?おかしいな……。おーい!」
バンバンとその大きな手で、チカちゃんがコーティングマシンなる物を叩いてみるものの、再び動き出す気配は全くなく、ドーナツはチョコレートを全身に受けられずにその手前で止まっている。そのチョコレートカーテンも、ドーナツを待つことなく、ただダラダラとチョコレートを垂れ流し続けている。
「ア、アニキ……。ヤバくないッスか、これ?雑賀の姐さんにまた……」
「元親。お前は何をやっているんだ?」
「サ、サヤカ!」
キッチンの入り口に突如として現れた副店長が腕組みをして、不敵な笑みを浮かべながらチカちゃんを見つめていた。
チカちゃんとは学生の頃からの知り合いだという雑賀さんは、副店長ながら事務方の一切を取り仕切っている。雑賀さんこそ、この店の本当の実権を握っていると言っても過言ではない。
「元親。最近、また店に顔を出さなくなったと思っていたら、こんな物を作っていたんだな?」
「だ、だってよぉ、」
「みんなは持ち場に戻れ。元親はこっちへ来い」
「……はい」
がっくりとうな垂れながら、チカちゃんは雑賀さんの後をとぼとぼ付いて、事務所の方へと消えて行った。
「ねぇ。誰かこれ、片付けてくれない?邪魔なんだけど」
「邪魔ってひどいッスよ、さん!アニキ入魂の一作ですぜ?」
「でも、使えないんだから仕方ないじゃん」
「ま、まぁ、そうッスけど……」
すぐ近くにいた親貞さんと数人に、がらくたとも呼べる例の失敗作を外に運び出してもらっている間、私は、一人でドーナツとチョコレートの後片付けをする。
昔から、チカちゃんが機械をいじるのが好きだということは知っていたけど、それが高じて発明が趣味となり、まさかドーナツを作ったり、デコレーションする機械まで作っているだなんてことは知らず、そんな話を聞かされたのはつい最近のことだった。どうりで、私と雑賀さんに店は任せっぱなしで、チカちゃん自身は店に来ない日が多いはずだ。いつも、どこかで一生懸命機械を作っているらしく、それができあがると今日の様にフラッと店に顔を出す。
だけどチカちゃんの作る物は、私が知る限り、そのどれもがことごとく失敗していた。
面倒見がよくって、みんなに「アニキ」と呼ばれて慕われているチカちゃんだけど、発明品のこととなると、周りが全く見えなくなってしまう所が、唯一の欠点と言える。チカちゃんなりに、機械ができれば作業の効率が上がるだろう、と考えているのも理解はできるけど、
それでも、あの数々の失敗作に注ぎ込まれたものは、相当な額に上っているはずで、本当にお店やみんなのことを考えているなら、それを続けるべきかどうかくらい明白だと思うんだけど。それでも、何とかこのお店が潰れずにいられるのは、一重に雑賀さんの手腕のおかげだろう。
幸い、一つひとつ手作りで作っているうちのドーナツをおいしいと言ってくれるお客さんは多いし、店の雰囲気も、男所帯な割に愛想もサービスもいいので、リピーターが多い。地道にコツコツやっていけば、確実に収益は上がっていくはずなのに、チカちゃんは機械を作ることにこだわっている。
いや、こだわり過ぎていて、今やドーナツを作りたいから機械を作っているのか、機械を作るためにドーナツを作っているのかわからないと思っているのは、私だけだろうか。
雑賀さんにお説教されれば、しばらくは大人しくお店に出てくるので、その間にそろそろ新作のドーナツを考えなければ、と私は慌てて頭の中で予定を立てた。
「まーた、サヤカにお小言くらっちまった」
「チカちゃんが何度失敗しても止めないからじゃない」
「今度のはうまくいくと思ってたんだけどよ。何が悪かったんだろうな。……そうか!あそこを、あぁして、で、
アレをこうすれば……」
「それはいいから、そろそろ新作考えるね。いい?今週中には試作品作るから、ちゃんとお店に出て来てよ?」
「お!新作かぁ。今度は一体どんなの作るんだ?」
「まだ考え中。それより、ちゃんとお店に顔出してね」
「わーかってるって!ったく。まで俺に説教かよ」
ぶつぶつ文句を言いながら、ドーナツカッターに入れてあった生地を、次々と油の中に落としていくチカちゃんの横で、私はこんがりときつね色に揚がったドーナツにチョコレートを付けたり、クリームを入れたり、とデコレーションの仕事をしばらく黙々とこなした。
「そういやよぉ、お前、ナリスピードーナツ、だっけか?その店、知ってるか?」
「ん?あ、知ってるよ。最近できたお店でしょ?ナリスピークリームドーナツだったと思うけど」
「行ったこと、あるか?」
「うん。できてすぐ行ったよ。新し物好きだし、私」
「で、どうだった?」
「どうって……。うん。普通においしかったよ。うちよりちょっと甘いけど。でも、あのふわふわの生地はうちで
も作ってみたいなー」
「味はいいんだよ、味は」
「え?」
「向こうはアレだろ?機械使って作ってんだろ?」
「……あぁ、確かに!そう言えば、お店の中にあったね。大きい機械がドーンとあって、揚げるのから、グレーズ
から、それで全部やってたよ」
「うーん……」
「チカちゃん?余計なこと、考えないでよ。さっき、雑賀さんに怒られたところでしょ?」
「それが、雑賀に聞いたんだけどよ、最近向こうの売り上げの方が伸びてきてるらしいんだ。やっぱ、うちも機械
を入れて、大量に作れば売り上げが上がるんじゃないかと思うんだけどよぅ」
「いや、うちはほら、手作りが売りだから大丈夫だよ。それに、がんばって新商品考えるからさ。それで勝負しよ
うよ!」
「新商品か。ま、それもそうだな」
また、さっきみたいな失敗作を作られてしまっては、今度こそ、このお店の存亡に関わりかねない。何とか、その場はうまく言いくるめられたものの、機械作りをすっぱり諦めた訳ではなさそうなチカちゃんに内心ヒヤヒヤした。
その日はそのまま、何事もなく仕事を終え、事務仕事を手伝わされているチカちゃんと、その横で睨みを利かせている雑賀さんに挨拶をしてから店を出た。
さっそく試作品を家で作ってみる為にスーパーに立ち寄ろうか、などと考えながら歩いていると、突然、「貴殿に話がある」と背後から声を掛けられた。振り返ると、そこには小柄な男の人が立っていて、不審な目を向ける私にすかさず名刺を差し出してきた。そこには、『ナリスピークリームドーナツ 代表 毛利元就』とあった。
「ナリスピードーナツの方……ですか?」
「悪い話ではない。すぐ済む故、少々付き合ってもらいたい」
そう言うと、毛利さんは私の前に立ち、近くのコーヒーショップへ先導した。
「単刀直入に言おう。我らは、貴殿を雇いたい」
「え?」
先に座っておけと言われ、大人しく空いていたソファ席に座っていたら、温かいコーヒーと、冷たい抹茶ラテらしき飲み物を手にした毛利さんが向かい側に座り、私にコーヒーを差し出すと、すぐに本題に入った。
「貴殿も知っておるだろう。我らは、今、業界トップの座を狙っている。しかしながら、長曾我部の店が長らく独
占状態にあって、どうもそれが邪魔で仕方ない。そこで、我々に足りないものは何かと考えた結果、貴殿の噂を
耳にした。長曾我部の店の商品開発は、貴殿が一人で担っているそうだな。そこで、貴殿には我々に与してもら
いたい。何も、唯でとは申さぬ。今、長曾我部からもらっている給料より、倍の金額を出そうではないか。どう
だ?」
「いや、どう、と言われましても……」
「ふん。考えずともわかるものを。まぁ、でも仕方あるまい。急な話ではあるからな。そうだな……明日まで待と
う。一晩、しかと考えておけ」
「あの、」
私がすぐさま断ろうとしたのも聞かず、アイス抹茶ラテをズズっと一気にストローで啜って、毛利さんは先に店を出て行った。
一人、店内に残された私はぼうっと、さっきの話を反芻する。―― あれは、引き抜きの話だ。
確かに、お給料の面ではかなり魅力的な話だし、仕事の内容も、今と変わらない。だけど、今のお店で、あのチカちゃんの機械作りに不安を感じることはあっても、他には不満らしい不満なんて何もなかった。不満どころか、お店のことは大好きだ。チカちゃんや雑賀さんはじめ、店のみんなのことは家族のように思っているし、辞めるだなんてそんなこと、考えたこともない。できれば、ずっとみんなと一緒に仕事がしたいと思っている。
明日の朝にでもさっそく断りの電話を入れようと、私は残りのコーヒーを飲み干して席を立った。
翌日、いつも通りに出勤して事務所を覗くと、めずらしくチカちゃんが私より早く出て来ていて、すでに出勤している何人かの人と一緒になって話をしていた。だけど「おはようございます」という私の声に気付くと、みんな急に黙って私の顔を見た。チカちゃんに至っては、ずんずんと私に詰め寄ってきて、思わず後ずさってしまうほどだった。
「な、何?どうしたの?」
「おい、!お前、この店辞めねえよな?毛利んとこに行ったりしねえよな?」
「さんッ!俺達を置いて行かねぇでくださいよぉ!」
「は?毛利?……って、えぇ?何でその話知って、」
「昨日、毛利から電話があったんだよ!お前を雇うことにしたから、さっさと辞めさせてこっちへ寄越せ、って
な」
「いや、辞めるなんてそんな話一言もしてないけど」
「本当か!?本当に、辞めないんだな?」
「辞めるわけないよ。私、この店好きだし。ってか、毛利さんにも今日朝イチで断りの電話入れようと思ってたん
だけど」
「そ、そうか。そりゃよかった。な、野郎共!」
「アニキー!よかったッス!」
何を、勝手な話をしてくれているんだろうと憤慨しながらも、さっそく仕事に取り掛かり、足りなくなったグレーズを足していると、店内の方から「長曾我部!」と聞いたことのあるような声がした。すると、その声を聞いたチカちゃんが、奥の事務所から慌てて飛び出して来て、突然現れた毛利さんを事務所に引っ張って行った。もしかして、昨日の引き抜きの話でやって来たのかと思い、私もその場を忠澄さんに任せて事務所へ向かう。
「失礼します」と言ってドアを開けるなり、毛利さんには「いつまで待たせるつもりか」と言われ、チカちゃんには「お前は店に戻ってろ」と言われた。
「我を待たせるでないわ。早よう仕度をせぬか。今日は、このまま我の店へと参るぞ」
「毛利ィ!勝手なことばっか言ってんじゃねぇよ!はお前の店になんか行かねぇからな」
「ふん。馬鹿め。長曾我部、この店がそう長くないことくらい、貴様にもわかっておるだろう」
「ンだとお!?」
「とうに調べはついておる。この店を畳むことになるのも、時間の問題よ」
「……っ」
「毛利さん。昨日のお話は、お断りします。私は、何があってもこのお店に残りますから」
「己の才を、ここでこのまま潰すと言うか」
「おい、毛利。勝手もそこまでにしとけよ。は辞めねぇ、って言ってんだ。はな、うちの店の大事な仲間
なんだよ!こいつがいなけりゃ、この店は回んねぇんだ。俺にはが必要なんだよ!」
その言葉に驚いて思わずチカちゃんの方を見ると、チカちゃんははっとしたようになり、視線がぶつかった私から顔を背けた。
「元親。もう十分だろう?毛利も、わかったらもうこの件からは手を引いてくれ」
さっきのチカちゃんの言葉にしんと静まり返っていた所に、雑賀さんが現れて話を付けてくれた。
「ふん。つまらんな。貴様の店に、少し揺さぶりをかけてやっただけというのに、店の者全員で騒ぎおって。店主
が馬鹿なら、店員も馬鹿が揃っておる」
毛利さんは、そんな捨て台詞を残して帰って行った。残された私と店長、雑賀さんの三人は少々呆気に取られたものの、何とかこの一件が何事もなく丸く収まったので、私は雑賀さんにお礼を言った。
「元親。毛利に言われなくとも、お前ならこの店の今の経営状態がどうなっているかくらい、気付いていただろ
う?」
「まぁな」
「機械を使って大量生産することも、あながち間違いではない。しかしな、そのことで足許を掬われていては何に
もならないぞ」
「……んなこたぁ、わかってるよ。俺はな、ただに……」
「え?私?機械作るのと私と、どう関係あるの?」
「お前にすごいって認めてもらいたかったんだよ!」
なぜか顔を赤くして、ぶっきらぼうにそう言い放ったチカちゃんの言葉の真意が汲めずに、首を傾げていると、雑賀さんが「店のことは私に任せて、二人でゆっくり話せ」と言って、事務所を出て行った。
「さっきの、どういうこと?私、意味がよくわからないんだけど」
「お前のおばさんに聞いたんだよ。お前が付き合ってたヤツの話」
「え、え?ちょっと、待って。聞いたって、何を?」
「有名なケーキ屋のオーナーと付き合ってたんだろ?すげーヤツで、尊敬できる、って言ってた、って。ガキの頃
は、お前にとってすげーヤツってのは俺だけだったのにな。ははっ……ったく……。俺ァ、こうやってドーナツ
屋やってる割に、自分じゃあ何も作れねぇし、それなら得意な機械を作ってやる、って思ったけど、それも、失
敗続きでよう。いつか、ちゃんとした物が作れれば、お前も俺のことまた昔みたいにすげーって思ってくれて、
で、その……アレだよ……あの……ほら……」
「ごめん、チカちゃん。話がよくわかんない」
そう言った私を、チカちゃんはちらと見たかと思うと、次の瞬間にはがばっと引き寄せて、自分の腕の中に納めた。
「す、好きになってくれんじゃねぇか、って思ったんだよ!ったく。くそっ。あぁぁぁ、もう!!どこにも行
くな!っつーか、ずっと俺の傍にいやがれ!」
昔、私が知っていたチカちゃんより、ずっとずっと大人の男の人らしくなった厚い胸からは、全く不釣り合いな、バニラの香りが微かに漂っていた。その香りのせいか、それとも、さっき突然受けた甘い告白のせいか……。
私の頭はどうしようもなく、くらくらしていた。
2013/03/28 written by Pivoine
material by irusu
←back