夜も更けた頃、は自室に籠もり、顰め面を始終崩すことなくうんうんと唸っていた。
というのも、つい1時間程前に、父親と言い争ったばかりだからだった。
の父は、トヨトミルドという最も有名なハンバーガーチェーンの経営責任者、いわゆる社長だ。
豊臣秀吉という名は、業界人でなくとも知られている程の有名人。
日本におけるファーストフードの礎を築いた人間と言っても過言ではないだろう。
そんな父だから、の家は当然裕福だが、だからと言って欲しい物が何でも手に入るわけではない。
月のおこづかいも特別多いわけではないし、あれが欲しいと強請ったところで買ってもらえる確率は高くない。
ケチなのではなく、を甘やかさないための教育方針らしい。
「お母さんがいれば、もっとワガママ聞いてもらえたのに」
唇を尖らせながら、は呟く。
の母、ねねは、が幼い頃に他界している。仕事人間であった秀吉を一心に裏で支え、体調を崩してしまったのだ。
そんな過去もあり、は秀吉を受け入れられずにいた。正直なところ、今でも許せていない。
だから、融通の利かない秀吉の言動には必要以上に腹が立ってしまう。
今日のケンカについてもそうだ。アルバイトをしたいとが願い出たが、あっけなく却下された。
小遣いはやっているだろうといつも通りにあまり表情を変えず言うものだから、何も分かっていないとはリビングを飛び出した。
苛立ちをぶつける先もなく、とりあえず抱えていたクッションを床に叩きつけてみたが、腹の虫が治まるわけもない。
「、入るよ」
足音もなく唐突にドアがノックされ、びくっと肩を揺らしたところで聞こえてきたのは、半兵衛の声だった。
彼、竹中半兵衛は、秀吉の秘書兼副社長であり、母を亡くしたの世話係のようなこともしている。
にとっては、年の離れた兄のような、それでいて母のような存在でもあった。
付き合いが長いこともあり今さら気を遣うこともないが、つかみどころのない男だとは常々思っている。
先程の親子喧嘩の間も、まるで感情の読めない表情で、ただその様子を見つめていただけだ。
不機嫌を隠すことなくどうぞと入室を促せば、半兵衛が部屋に入って来るなりクスリと笑う。
「まったく、君と秀吉はまるで似ていないね。秀吉にもその半分でいいから表情豊かになってほしいものだよ」
「用事はそれだけ?他に言いたいことがあってきたんでしょう?」
「うん、アルバイトの件だけどね、の気持ちは分かる。君も、もう大学生だ。周りの子らがアルバイトをしているのを見て、置いていかれたような気分になったんだろう?違うかな?」
半兵衛の言うとおりだった。大学生にもなれば、アルバイトをしていない方が珍しく、特にと仲の良いかすがや市、後輩の鶴ちゃんもそれぞれアルバイトを始めたと聞いては、居ても立ってもいられなくなった。
察しのいい半兵衛に気を良くしたは、期待を込めて大きく頷く。
「秀吉と話をつけてきたよ。ただ、彼もなかなか折れなくてね。要するに娘が心配なんだろう。そこで、折衷案だ。アルバイトは許可するが、トヨトミルドに限る、それ以外は認めない、とのこと。どうだい?」
期待に満ちていたの瞳は一瞬にして曇る。
何が悲しくて父親の経営するハンバーガーショップで働かなければならないのだ、と。
それもトヨトミルド。高校生じゃあるまいし。
どうせアルバイトをするならオシャレな店で働きたいと考えていたにとっては、納得がいかない。
マツナガックス・コーヒーやナリスピークリームドーナツなど、その名を挙げるだけで羨望の的になるような店がいい。
しかし、ここでが反論したところで、許可が下りる可能性なんてゼロだ。
見るからに渋々といった顔で、は溜め息混じりに首を縦に振る。
何かを企むような半兵衛の表情が引っかかったが、にはそれを問う気力も残っていなかった。
翌週の月曜日、は一つ隣の駅前にあるトヨトミルドを訪れていた。
働く店舗すらも既に決められていて、選択の余地など用意されていなかったことにはも閉口したが、今更どうでもいい。
店に入ると、社長の娘がアルバイトをすると広まっているらしく、他の従業員が物珍しいような視線を送ってくる。
「ぬしが太閤の娘か。まるで似つかぬ容姿よ。まあ、しばし待て、直に店長が参る」
「は、はあ、どうも・・・」
怪我でもしているのか、最初に声を掛けてきた男――ネームプレートを見ると大谷というらしい――は、体中、顔まで包帯で覆われている。
は思わず凝視してしまい、慌てて視線を外した。
太閤というのは父のあだ名だろうか、と思案に耽っていると、しばらくして奥から一人の男が出てきた。
細身の長身に、視界の邪魔にならないのかと問いたくなるような前髪と、その奥から覗く鋭い眼差し。
その男は、大谷と一言二言何か言葉を交わしたあと、つかつかとに歩み寄ってきた。
「秀吉様と半兵衛様からお話は伺っている。私が店長の石田だ」
「父がお世話になっています。娘のです。本日から、よろしくお願いします」
「教育係は私が自ら務める。秀吉様の娘といえども容赦はしない。覚悟しておけ」
は腸が煮えくり返る思いに拳を握りしめた。
新人アルバイトとはいえ社長の娘。従業員も気を遣うだろうと謙虚な姿勢で挨拶をしたというのに、何だこの男は。
思わず放心したを睨み、さっさと着替えろと制服を寄越してくる始末だ。
「5分で着替えろ。先に行っておくが、貴様が基本を覚えるまで客前に出すつもりはない」
それだけ言い残すと、店内へと続くドアの奥へと去っていく。
は渡された制服を手にしながら、それを破り捨ててやりたい衝動をどうにか抑えた。
「気を悪くするな。三成はああいう男よ。慣れれば可愛げも見えてくるであろう」
「あんなのが可愛いなら、世の中の男はみーんな可愛いでしょうね!」
「ぬしは面白い。気に入った。可能な限りのフォローは我がしてやろう。さて、まずは着替えて来るがよい」
見た目はどことなく不気味だけど、悪い人ではなさそうだ。
女子用のロッカールームへと促されながら、は大谷の印象をそう判断する。
時計を気にしながらも全身をチェックし、なかなか似合っていると思わず笑みをこぼしつつは店へと足を踏み入れた。
それと同時に、あの鋭い視線がを捉え、腕時計を見ると、フンと鼻で笑うのだ。
「着替えはどうにか間に合ったようだな。この程度で遅れる愚図ならば、秀吉様にお断りのご連絡を入れねばと思案していたところだ」
「お褒めにあずかり光栄です。愚図で鈍間な豊臣の娘ですが、ご指導の程お願い致します」
「褒めた覚えはないが、まあいい。初日から機材を触れるとは思うな。今日は徹底的にマニュアルを叩きこんでやろう」
皮肉たっぷりに返してやったが効果はまるでない。
僅かにも表情を崩すことなく、くるりと背を向け、が今出てきたばかりの従業員専用エリアのドアを開けた。
「ぼさっとするな。他の者の邪魔になる。こっちへ来い」
なら最初から中で待ってろよ、という言葉は飲み込み、必死に作り上げた笑顔で「はい」と返事をする。
叩きこむと言うのだから、挨拶の練習やお辞儀の角度など体育会系に教え込まれるとは予想していたのだが、意外にも一冊の冊子を渡され、まずは目を通せと指示された。
そこにはトヨトミルドの成り立ちや、従業員の心得、そして経営者から従業員へのメッセージが書かれていた。
当然、の父である秀吉の言葉だ。
家では目にすることのない父の仕事への姿勢を、このような形で知るとはも思っていなかった。
仕事ばかりで家庭を顧みず、母を死に追いやったとはずっとどこかで父親を恨んでいた。
だけど、秀吉がどんな思いで仕事に打ち込んでいたか、それをは知ろうともしなかったのは事実だ。
全てを許せたわけではないが、今日はお父さんの好物でも買って帰ろうかと考える程には見直すことができた。
「そこに、秀吉様のトヨトミルドに対する想いが書かれている。貴様にも理解できるだろう?」
声を掛けられ顔を上げると、先程までとは別人のような瞳でを見つめる姿があった。
社長や副社長ではなく秀吉様半兵衛様と呼ぶところから、彼らに心酔しているんだろうとはも気付いていたが、能面、いや般若のような男の表情を、こんなにも穏やかなそれに変えてしまうとは驚かされる。
大谷の言う『可愛げ』が、にもなんとなく分かったような気がした。
結局その日は、店長直々のご指導、基、三成の秀吉への熱き想いを長々と聞かされ、アルバイトの仕事についてはほとんど何も得ることなくは帰宅した。
実質的な労働は翌日から始まり、三成の厳しく口うるさい指導、そして大谷の丁寧な指導を受け、はどんどん仕事を覚えていった。
トヨトミルドでバイトなんて恥ずかしい、などと最初は思っていただったが、慣れと共に楽しいと思えるようになっていた。
「ありがとうって言ってもらえるのがこんなに嬉しいなんて、知らなかった。笑顔には笑顔で返してくれるんだよね。あ、でも、店長に限っては相変わらず能面みたいな顔でいらっしゃいませって言うんだから笑っちゃうんだけど」
「彼は不器用だからね。スマイルでも注文してみたらどうだい?」
「やめてよ!また斬滅とかなんとか物騒な言葉で説教されるの私なんだよ?」
「へえ、仲が良いんだね。ね、秀吉」
「うむ」
家に帰るとその日バイト先であった出来事を秀吉と半兵衛に話すのがの習慣になっていたのだが、心なしか秀吉も嬉しそうにの話を聞いている。
トヨトミルドでバイトを始めたことで、親子関係も良好になっていた。
半兵衛はこれを狙っていたのかとは気付き、なんだかしてやられた気がして悔しくもあるが、悪い気はしていない。
三成の言動には腹を立てるばかりだが、の毎日は充実していた。
元々要領のいいだからそれなりに仕事も早く、愛想の良さも幸いして客受けもいい。
社長の娘だと最初は腫れ物に触るようだった他の従業員ともすっかり打ち解け、バイト帰りに飲みに行く間柄になっていた。
そんなある日、ラストまで入っていたバイトはのみ、他は三成と大谷だけ、というシフトがあった。
大谷がいてくれるから乗り越えられたものの、もし店長と二人だったら死んでたな、とは心底大谷に感謝をする。
今日は秀吉も半兵衛も帰りが遅いと聞いている。いつもの飲み仲間もいない。ならば。
「大谷さん、このあと空いてます?ご飯でもご一緒にいかがですか?」
「珍しい誘いもあるものよ。三成、ぬしも行かぬか?」
「えっ?店長も、ですか?」
「三成が一緒では困ることがあるのか?ヒヒッ」
意地の悪い笑みを浮かべながら、の困惑を思い切り無視して大谷は三成に声を掛ける。
どうせ断るんだろうと期待したであったが、予想に反して三成が了承したことで、の顔色は真っ青になった。
従業員同士での飲み会にも顔を出したことのない、あの店長が、今日に限って何故。
は恨めしく大谷に視線を送ったが、楽しそうに口角を上げられる。どうやら、わざと誘ったらしい。
店を出たが溜め息を吐いていると、施錠を確認する三成の横で何やら大谷が携帯を弄っている。
彼女にメールでも送ってるのかなと興味深くもあったが、今ここでそれを問うとまた三成がうるさそうなのではぐっと我慢した。
「何か食べたいものあります?」
「店は貴様が決めろ。私は、よく知らん」
「我も同意見よ。こういった類は女子に任せるのが得策であろ」
時間が時間のため、開いている店も少ない。かと言って居酒屋に行く気分でもなかったは、少し歩いた場所にあるファミレスへと二人を誘導した。
店に入り、席に着いたところで大谷の携帯が震える。彼女からの返信かなとにやけながらは視線を送った。
「おお、すまぬ。急用が入った。我は帰らせてもらうとしよう」
「なんだと?」
「ちょっと待ってください、大谷さん!」
「どうした?三成と二人では間が持たぬか?」
「い、いいえ、そんなことは、ありませんよ?」
「ならば問題なかろう。三成を頼んだぞ。三成、ぬしもたまには優しく接してやれ。ではな」
なんて顔をしているんだろう。楽しそうに、嬉しそうに、席を立って去っていく。
思わず立ち上がってしまったは、諦めたようにゆっくりと腰を下ろし、メニューを手に取った。
流れる沈黙が気まずくて、メニューが何一つ頭に入ってこない。
が何気なく視線を上げると、鋭い目付きで三成がを睨み付けている。
「な、なんですか?どっちのメニューも同じでしょう?」
「貴様は、そんなに嫌か」
「何がですか?」
「それ程までに、私が嫌かと聞いている。刑部が帰った程度で狼狽え、途端に黙り込み、挙句の果てにその顔だ。嫌ならばそう言えばいいだろう」
「え、あの、その、嫌っていうか、店長、怖いんですもん・・・。いつも怒ってるし、顔も怖いし」
「私は一度たりとも怒った覚えはない。顔は、生まれつきだ」
至極真剣にそう言うものだから、可笑しくなりは思わず吹き出してしまう。
何を言い出すのかと思えば、自分が嫌われてるのかと心配していたとは、まさか考えてもみなかった。
が笑ったことで気分を害したのか眉間に皺を寄せている。
「店長って、意外と可愛いとこあるんですね」
「な、何を・・・!もういい、さっさと決めろ」
「店長は?決まってるんですか?」
「私はコーヒーだ」
「それだけですか?いつも思うんですけど、店長食べなさすぎです。体壊しますよ!」
「貴様に指示される筋合いはない。必要最低限の栄養は摂取している」
「そういう問題じゃないんです!あー、腹立つ!」
言ってから、しまったと気付いたが一度口に出した言葉は戻らない。
明らかに不機嫌な表情で睨まれたは一瞬怯み、しかしすぐに持ち直してメニューをテーブルの端に立て掛けた。
その勢いで立ち上がり、三成の腕を掴むと、目を丸くする店員に一礼しつつ店を出る。
何をする離せと聞こえてくる声は綺麗さっぱり無視をして、ぐいぐいと引っ張りながら元来た道を戻った。
鼻息を荒くするに三成も諦めたのか、抵抗を止めておとなしくついてくるのだから、の表情も思わず緩む。
店の前に到着すると、ぱっと手を離して三成の方へと顔を向ける。
「忘れ物でもしたのか。強制的に送らせるとは貴様もなかなかに強かだな。気が済んだか。私は帰るぞ」
「何言ってるんですか。店長を満腹にさせるために、ここまで連れて来たんです。敬愛する父が作り上げた味なら、いくらでも食べられますよね?」
「なんだ、と・・・?!と、当然だ。トヨトミルドのバーガーは世界一だからな」
「そうですか。なら、鍵を開けてください。店長に教え込まれた技術をお見せするいい機会ですし。一石二鳥ですね」
「ほう、言ったな。僅かにも不手際を見せてみろ、新人に格下げだ」
「受けて立ちますよ。店長こそ、一口でも残したら父にきっちり言い伝えますからね」
そして三成が見守る中、はせっせとバーガーを作り、ポテトを揚げ、ナゲットとアップルパイまで準備をすると、シャッターの下りた薄暗い店内で出来上がったセットを三成に食べさせる長い夜が幕を開けた。
ドリンクだけは注文通りにブラックコーヒーを淹れてやったものの、食の細い三成がそれらを食べ終えるのは至難の業で、あまりに時間がかかるものだから、いっそ口に押し込んでやろうかと物騒な考えが働いてしまうほどを苛立たせた。
結局、見かねたが半分食べてやったことでどうにか完食することができたものの、全て一人で食べ切れなかったことが相当に悔しかったらしく、いつまでも秀吉への謝罪を繰り返していた。
「秀吉様、私に、再度ポテトを食す許可を・・・!」
「許可なんてもらわなくても、食べたいときに食べたらいいと思いますよ」
「黙れ!貴様に私の気持ちが分かるか?分からぬだろうな。いいか、次は必ず食べ切る。だから、この件は、」
「はいはい、父には言いません。半兵衛さんにも言いません。その代わり、これからはしっかり食べてください。私ずっと見てますからね」
「ずっと、とは、この先一生、という意味か?」
「・・・は?」
「随分と遠回しな求婚だな。しかし貴様も同じ気持ちだったとは」
「はあ?」
状況についていけないを置いてけぼりにし、普段とは比べ物にならない量を食したことで何かのネジが外れたのか三成はどんどん先を行ってしまう。
の父である秀吉への病的なまでの陶酔とは別に、娘であるに対してもまた違った形で、つまるところ懸想していたとはもちろんは予想もしておらず、当の三成自身も犯した失態に気付くのは、少し先の話。
そんな空回りの二人を余所に、秀吉、半兵衛、大谷の三者が豊臣家で杯を交わしているとは、も三成も知る由もない。
全てはトヨトミルド軍師の策の内。
まんまと策に嵌ったの人生初のアルバイトは、いつの間にか、恋の始まりへと導かれていた。