高二にして、初めてのバイトを始めた。
学校と自宅の、調度真ん中くらいにある乗り換え駅近くの、コーヒーショップで。
とはいえ、わたしにはコーヒーの知識など、まるで無い。どころか、コーヒーそのもの自体、実は飲めなかったりするのだ。この店のメニューでわたしが頼んだことがあるのなんて、カフェモカかフラペチーノ系くらいのものだ。そもそもトールだとかグランデだとか、わけのわからない独自の単位を扱うこのマツナガックスコーヒーの、何に惹かれたのかと言えば、このカジュアルな制服と店の垢抜けた雰囲気、ちょっと大人のキチっとしたビジネスマンたちを拝める絶好のポジションなどであったり、する。とにかく、はじめてのバイトである。すんなりと面接を通って、このモスグリーンのエプロンを身につけることを許されたわたしは、ほんの少しの高揚を胸に、今日もカウンターに立っている。
ボサノヴァの流れる店内、今の時間は人も疎らだ。
後ろからはベテランの三好先輩(三兄弟なのだけれど、正直誰が誰だかいまだに良く解ってない。まあ、つまりはその三好さんのうちの、誰か、だ)が、エスプレッソマシーンと格闘している音がする。あの音は、なんだか歯医者のようで、わたしはあまり、好きじゃない。先ほどエスプレッソを頼んだお客さんは、ランプの垂れ下がる受け取りカウンターの前で品を待ちながら、ぼんやりとスマートフォンを弄っていた。
雨が降りだしたのは、ほんの数分前のことだった。天気予報はまた外れ。ここのところは毎日期待を裏切られているような気がする。入り口のルーフの下へ、オーナーはしげしげと空を見上げながら、傘立てを準備していた。
わたしはあの良く解らないおじさん──オーナー──のことが、少し、苦手だ。
ふ、とオーナーが振り向いた時、調度BGMがジョビンを流し始めた。オーナーはおや、という顔をして、緩慢な足取りでカウンターのわたしの元へとやってきた。ランプの下でエスプレッソを待っていたお客さんは、三好先輩からそれを受け取ると、奥のラウンジシートの方へと向かった。個性的に整えられた髭を撫で付けながらカウンター越しに、オーナーはに、と口角を上げて笑みかけてくる。わたしはそれに曖昧に微苦笑で返した。だから、苦手なんだってば…と内心で語散ながら。
「ジョビンは、私の青春でね。卿はまだ高校生だったかな?ならば、知りはしないだろうが」
「知ってますよ。“イパネマの娘”の人ですよね?ていうかオーナーってお幾つなんですか?」
「ほう、私に齢を訊くかね。卿は中々に旺盛な好奇心の持ち主であるらしい」
そうそう、いつも、大体こんな感じ。
会話がずーっと上滑ってる感じ、ね。まず女子高生にこの人の相手?とか無理だなって、思う。そりゃあもう、いつだってなんだって、上手い具合に転がされているのが自分でも良く解るもの。まるでお釈迦様の掌の上。松永様の掌の上。現在地すら危ういわけで。
「父と同じくらいですかね?」
「さて…──如何かな。卿の身内の年齢には、些か程の興味も湧かないのでね、」
「あー、そーですか」
わたしが、一見失礼であろう相槌を打つようになったのは、バイトを始めて二日目から既にだった。なんたって、ずっとこの調子である。真面目にきちんと相手をしていたら、とてもじゃないけれど、こちらの気が保たない。バイト終わりに、まるで生徒指導でもみっちり受けた後かのように、ぐったりと精神を疲弊させて帰宅した初日の事は、あまり思い出したくない。
「そういえば、───」
オーナーはそう何かを言い掛けて、しかしそれ以上の言葉を継がずに口元に手を当て、ひとりでふむふむと考え込んだり、頷いたり、納得したりしている。その姿を、カウンター越しに眺めていて、思うことがある。───この人やっぱり、エプロン凄まじく似合わないな…、と。
「そう。新作のフラペチーノについてだがね、卿はもう試してみたかな」
新作の…と言われて、ボードに風魔くん──彼はわたしと同じ高校の美術部に所属している。わたしは面接を受けるまで、彼がここでバイトしていた事に気付かなかった!あんな派手な身形をしてるくせに、やけに存在感無いよね?風魔くんって!──が器用に描いた、新作の、期間限定フレーバーのフラペチーノを見上げて、首を振った。
「いいえ、まだです。でもこれ美味しそうですよね。今日上がったら飲んでみようかな」
「ふむ。…──ならば私が馳走しよう。上がったらバックヤードの私の部屋を訪ねてくれたまえ」
へ?──と、随分と間抜けな声を漏らしたものだったが、オーナーはそ知らぬ顔をして、ジョビンの音楽に合わせてタクトを振るように指先をそよがせて、降る雨を臨める窓際の席へと向かった。先ほどのエスプレッソのお客さんが帰った後の、テーブルの片付けをしに行ったようだった。すぐさま三好先輩(勿論、それが何番目の誰かはわからないけれど)が、ダスタークロスを持って、後を追いかけていった。何も持たずに片付けに行くっていうのは、非常に新しい行動だなあ、と、そんなどうでもいい事を考えた。
よくわからないけれど、なんだかさっきのお誘いを、なかった事にしたかったのだ。まあ、なかった事になんて、ならないのだけれど。気まずいもん。
結局、バイト上がりの午後九時。わたしは言われるがままに、タイムカードを切ってから、バックヤードにあるオーナーの部屋を訪ねた。二度軽くノックをすると、中からは「入りたまえ」というけだるげな声。こういう声のときはあれだ、いつのだかわからないくらいに古臭い茶器やらといった骨董の類の蒐集品を磨いていたり、手入れをしている時のもの、だ。
「失礼しまーす」
「ああ、もう上がりかね?」
「はい。で、ええ、と…」
「ふむ。卿の時間が許すならば、10分ほど待ってもらえるかね」
「あ、はい。大丈夫です」
会話は淡々と交わされているのに、オーナーはじ、っと天目茶碗を眺めている。その目はまるで猛禽類のように鋭くて、静かなのにどこかぎらりとざわめいているようで、普段の緩慢で野暮ったさのある色めく眼差しとは一線を画すものがある。
仕事に対する姿勢や、仕事中の眼差しなんかより、よっぽど真剣ってどういうことだ、とバイトAは思うわけで。それからきっかり10分ほどで茶碗磨きに区切りをつけたオーナーと、店舗へ向かった。遅番の三好先輩(本日三人目の、何番目かの彼ら、だ)に頼んだ新作のフラペチーノをご馳走してもらう。少し話さないか?と言われて断る理由もなく、促されるままに向かい合わせのソファに座った。そこは喫煙席で、オーナーはわたしの方へ、指先に挟んだマッチを見せ、「いいかね?」と、許可を求めた。わたしはそれに頷き返し、それからついでのように、さっきからずっと気になっていたことを、口にしていた。
「オーナーって、あんなに骨董品が好きなのに、どうして喫茶店を始めたんですか?骨董屋とか、そういうのの方が向いてそうなのに…」
問えば、オーナーは特徴的な髭を、一度するりと撫ぜてから「ふむ」と言って、苦笑した。そうだな、気になるかね?声音ばかりはいつだって、ほんのわずかに挑発的だ。このひとはいつも、何かを嫌悪し、試したがっている。そうして、それと同時に、常に何かしらの物事に、飽いているのだ。厭世家、というとなんだか少し違うか、けれど、他にしっくりとくる言葉が見当たらない。けれど悲観的かといわれれば、そうでもない。厭世的であるがゆえにこそ、何か穿った見方をすることで、楽しみを見出しているような…──まあ、まとめると、とてもじゃないが当代的な思考を持った人とは言えなそう、ってことだ。
「骨董は好きというよりも、それを蒐集することが主でね。そしてそれは趣味嗜好、というよりかは、己の欲求を満たすための手段の一つに過ぎない。生業には成り得ないものだ。──しかし、この店は違う。私とて何かをして生計を立てねば生きてはゆけない。その為に、ならば自分がどうあるべきか。考えた結果、私は人に使われるよりも人を使う側の人間であると気付いたのでね。そして幾つかの選択肢の中から、気まぐれに選んだものが、この今だよ。…卿のご期待に副えるような返答では、なかったかもしれないね」
新作のフラペチーノは、オレンジピールにグラニュー糖をまぶして乾燥させたものを、クリームの上にぱらぱらとかけているもので、甘さと同時に、ほろ苦さが目立つ。冷たいそれを、柄の長い白いプラスチック製のスプーンで掬って口に運ぶ。フラペチーノの、上のクリームを、最初に食べ切ってしまうのがわたしの癖、だ。
「んん、…──すこし、むつかしいです」
「卿は実に、素直でよろしい」
「………また、子ども扱いして、」
「ああ、そうか、前回もこれで気を損ねたのだったか。いや、これは失敬失敬」
これはほんの侘びだよ…──と、どこから取り出したのか、オーナーは細い花火のようなものを、わたしのフラペチーノのてっぺんに突き刺した。え、と思う間もなく、流れるような手つきでマッチを点し、パチン、と指を鳴らすと、それは弾かれたように、細やかな火花を散らしだす。
「わっ!オーナ、…──」
「火というのは、実に浪漫だ。それも、爆ぜるという行為には筆舌には尽くし難い美学がある。人を魅了し、その意識を、視線を奪うことが出来る。どうかね、気に入ってくれたかね?」
オーナーは少し変わったおじさんで、わたしは彼のことが、少しだけ苦手、だ。苦手だけれど、別に嫌いなわけでは、無い。今まで生きてきた中で身近にはいなかったタイプで、そして、どこかいつも奇異なるものを見るような眼差しで見られることに、そわそわとしてしまうからだ。
「きれい、とは、思います…──ええ、と、ありがとうございます」
たどたどしいわたしの返答に、オーナーはうっそりとほくそ笑んで、頷いた。
暫くの間、わたしたちの間には無言の静寂が打っていた。BGMも聞こえないくらい、自分の内側からとくとくと、いつもよりも早いリズムを刻む鼓動が、鼓膜にじかにたたきつけてくるように、大きくて、目の前の人に聞こえてしまわないかと、気が気ではなかった。気まずさを飲み込むように、花火の消えたフラペチーノを、ぱくぱくと口に運び、時折太い緑色のストローで、啜った。それは、ズズズ、と恨みがましいような音を立てた。まるでわたしの心内そのもののような音だと思った。
ほんの五分くらいだったろうか、静寂を翻すようにカラン、と音をたてて近くの席のお客さんが、アイスコーヒーのカップをテーブルに置いた。ぱっと視線を上げると、オーナーと目があった。その時、やにわにわたしのスマートフォンが着信を告げるメロディを鳴らしはじめた。
「さて、シンデレラはお帰りの時間かな?卿さえよければ家まで送ってゆくことも吝かではないが、しかしそれでは再会の楽しみは半減してしまうかな。ならば、せめて駅までは送ろうか、」
「は、恥ずかしくないんですかっ、そういう、の、…って、」
何故か言われたわたしの方が顔を真っ赤にして、慌てて場の空気を散らそうと、スマートフォンを掴みとって、ガタっと立ち上がった。一刻も早く、この場を辞してしまいたかった。気障なセリフ、とか、そういうの以前に、なんかすごく、とてつもなく恥ずかしい。松永様の掌の上ってところが何よりも…恥ずかしい…!
「か、帰ります!駅まですぐだし、送ってくれなくていいです。お疲れ様でした!」
「はは、ご苦労だったね。…──ああ、そうだ、今宵ガラスの靴は私が預かっておこう」
「わたしが履いてるのは、ローファーですっ!」
「はははっ、実に愉快愉快」
昼間のボサノヴァから、夜はジャズに変わったBGMが流れる店を飛び出し、駅まで続く一本道をゆく。途中、道々に並ぶダテッシュネスバーガーや、タケダッキーフライドチキンのガラス張りの店内に、同じ制服を着た子らが、ぺちゃくちゃとおしゃべりをしているのが、見えた。制服姿のわたしは、きっと、彼の目には彼女らとひとくくりの、お子様でしかないのだろう。
十七歳にして、初めてのバイトを始めた。
学校と自宅の、調度真ん中くらいにある乗り換え駅近くの、コーヒーショップで。
とはいえ、わたしにはコーヒーの知識など、まるで無い。どころか、コーヒーそのもの自体、実は飲めなかったりするのだ。この店のメニューでわたしが頼んだことがあるのなんて、カフェモカかフラペチーノ系くらいのものだ。そもそもトールだとかグランデだとか、わけのわからない独自の単位を扱うこの店の、何に惹かれたのかと言えば、このカジュアルな制服と店の垢抜けた雰囲気、ちょっと大人のキチっとしたビジネスマンたちを拝める絶好のポジションなどであったり、する。
だから、本当に、決して、けっして、…──
いつも窓際のシートでコーヒーを啜る年嵩のオーナーの姿に胸を焦がしてしまったから、などでは、無いのだ。けっして…ちがう、これはだって、恋なんてものじゃない。報われる望みもない、苦しいだけの、ものだもの。
「だから、苦手なんだってば…」言い訳のように、ぽつり、こぼした。
Cendrillon sans le sucre
雨はもう、已んでいた。
地面に出来た薄い水溜りに、情け無い顔をしたわたしが、ゆらゆらと揺らめいていた。
「はやく、おとなになりたい」
この思いは、苦くて、黒い、…──
まるで彼の好きな無糖のコーヒーのように自分にはまだ早い、そんな苦いだけのものに思えた。